勝ち戦

今日、娘を音楽教室の体験レッスンに連れていきました。

なにしろ恥ずかしがり屋なので、途中で泣き出して帰ってくるか、最後まで入れたとしても「もういや」といわれるか、どっちかかな、と思ってました。ダメ元。

ところが、最後までこなして、「面白かった」とまでいいました。嬉しい誤算。

なぜかと思うと、他の子たち(8人ほど)、多くがうちの子よりずっと恥ずかしがり屋でした。

最後、親と離れて子供だけで前に集まる、という時、まともに前に出ていけたのはうちの子入れて3人ほど。残りはみんな、親から離れるのが嫌で、前に出てこられないか、出てきても踊ったりジャンプしたりできず、棒立ちでした。

うちの子は、ひとまずできた。

この成功体験というか優越感なんでしょうかね、「楽しかった」といったのは。

 

人間、そりゃ誰だって勝つほうがいいに決まっています。なんだかんだで他人に勝ちたい。
わたし自身、勝負事は嫌いなのですが、それは「負けるのが嫌だから」です。負けたくないから勝負しない。

とくに一対一のゲームってほんと苦手なんですが、それはつまりは「自分が負けた」のが明らかだからです。チームで勝負したら「オレは別に悪くない」と言い訳できます。

で、勝てる局面をじっと待ってる。「ここなら勝てる」というのを見計らって勝負に出る。まあ、ろくな人間じゃありません。

 

その性質が娘にも受け継がれたんですかね。自分がこの集団の中で上位。なので楽しかった。

いいのか悪いのかわかりませんが、でも子供のうちから失敗体験を積ませるよりは、できるだけ勝たせて成功体験を積ませるほうがマシかと思っています。

 

期間限定

この仕事をしていて思いますが、仕事柄、いろんな人間(学生)を見ていますが、ほとんどは「18~22歳」の期間限定なのですよね。

この期間の人間しか見ない。卒業後の学生に会うことも全く無くはないですが、まあ例外。
これ、学校に勤めている人間、みんなそうですよね。
べつに貶めるつもりはないのですが、娘が通ってる保育園の先生、もちろんその道にかけてはプロですが、一方「こういう教育をしたら大人になってこうなった」というのを把握しているわけでもない(している人ももちろんいるでしょうが)。まあ、やりっぱなしが多い。

大学だってそうです。私を含めて多くの教員は、「自分がある学生に在学中に施した教育が、その後のその人にどのような影響を与えたか」を知る機会は、ほぼありません。自覚的にやられている人もいるでしょうが、まあレアでしょう。

だからいいでも悪いでもなく、仕方ないことなのでしょうが、不思議に感じることがあるです。

長い人生

娘が4月から、幼稚園に行き始めました。
今まで行ってた保育園と同系列なので、そこまで「新スタート」感はないのですが。

でもやはり幼稚園、早々に「自分でできるようにする」という企画が盛り沢山です。
今までは保育士さんがやってくれてたのが、これからは自分でやりなさい、みたいな。
まあ、そういうもんだよな、とは思いつつ。

でもまあ、人生長いんだから、「何歳で何ができなきゃならない」なんて、どうでもいいのになあ、とも思います。
どうせ放っておいてもそのうち自分でやるようになるんだから、別に焦らず自分のペースでやらせりゃいいじゃん、と。

でもそれだと、幼稚園としては手間がかかるのは当然です。今までのように3~4人の児童に1人の先生、というわけにはいかない。せいぜい10人に1人程度。もちろんそれでもだいぶ手厚いのでしょうが、でも相手は言葉も通じないガキども。ある程度規格化しないと、とてもじゃないと見ていられない、と。

そんなこんなで、人間、みんなベルトコンベアーに載せられて、JAS規格だかの証明がついた「人材」へと作り上げられていくんでしょう。なんだか悲しいですが、仕方なし。

個人情報の誕生

今さらながら、スマホを導入しまして。
で、いろいろ設定していて思うのですが、これって、個人情報のカタマリというよりも、個人情報を発信する機械という方が正しいですね。

 

とにかく、個人情報を入れさせられます。というより、すべてがgoogleさまによって紐づけられていく(androidなので)。生年月日はもちろん、カード情報もなにも、すべて。

 

そもそも、私がネットで何を見たかとか、何を買ったかとか、何を投稿したかとか、全部お見通し。プライバシーも何もありません。

 

ここでふと思うのが、個人情報に関する意識の高まり、これってネット、さらにいえばスマホの普及によって広まったんじゃないか、という仮説が。

それ以前って、個人情報っつったって、生年月日と、あとはせいぜい給料・借金の額ぐらいだったんじゃないでしょうか。個人情報ってそんなもん。どのスーパーで何を買ったかとか、本人を含めて誰も気にしてなかった。

それが、ネット、そしてスマホの登場によって、「これって、他の人に見られたらマズイよな」という意識が生まれ、個人上意識が肥大してきた、と。なんか、完全なマッチポンプですね。

 

そしてさらに思うのが、学生の、個人情報に対する関心の低さ。

昨年度の授業で、「中国的監視社会」について説明したあと、「こういう社会は是か非か」というお題でコメント書いてもらったら、ざっと75%が「監視社会がいい/監視社会でもいい」でした。はっきりイヤだと書いたのは、たぶん1割ぐらい。残りは「それで犯罪がなくなるなら、いい」という意見が多かったのです。

ややビックリして(せいぜい半々ぐらいかと思ってたので)、ツイッターなんかで報告すると、「うちもそんなものですよ」という同業者のコメントをいくつかいただきました。

 

これが、もしかしたら「生まれたときからスマホ」世代の感覚なのかなあと。最初から、個人情報が守られてるなんて、思ってない。どうせ丸見えなんだと諦めてる。というより、個人情報ってそもそもそういうもんだと思ってる。なので、それを隠そうとか守ろうという感覚が、あまりない。

こう考えると、感覚がだんだん中国に近づいていっているのかもしれませんね。中国人留学生に「全部スマホで決済したら、どこで何買ったか、全部バレちゃうじゃない」といっても「それがなにか?」という反応しか帰ってきません。それの何がいけないのか、さっぱりわからない、といった様子。

 

そういえば、昨年度のゼミ生(日本人)が「中国のスマホ決済」を取り上げたのですが、そのゼミ生自身がスマホ決済にはやや否定的なスタンスで、その理由は「人と人とのつながりが薄れる」なんですね。それが一番強い。「個人情報」云々は三の次ぐらい。それが一番新鮮でした。

 

相変わらずとりとめもないお話ですが、スマホの設定していて、なんかもう、個人情報なんてどうでもよくなってきました。私がウェブで何を見て何を買ったか、完全筒抜け。という新時代を生きていきます。

 

幸せ

卒業シーズン。今年度は残念ながら、卒業式には出られず。
でも明日から1泊2日で今さらながらのゼミ卒業旅行です。

 

この歳になると、一期一会ということばの重みが、ズシリと響いてきます。

「今後、もう二度と会えない人」がいるというのが、空恐ろしく思える。

 

一方最近思うのが、「この仕事しててよかった」というの。

若者の、一番多感な時期に立ち会えるというのは、それだけでありがたい。

ここのところ、「社会人の授業を一定程度開講しろ」というお達しが降ってきています。

私もよく、社会人の人たちを授業のゲストに呼ぶのですが、みなさん、一様に嬉しそうなのですよね。

若者の前で話すって、それだけで嬉しい。それを恒常的にできるわけですから、こんないい仕事はない。

もちろん、同業者でも、「授業はイヤ」という方もおられるでしょう。それはそれで、わかります。

ひとまず私は、若者の前で話すのが苦痛じゃないどころか喜びを感じられることに、どこかの神様に感謝しなければならないかもしれません。

 

ま、学生にとっては、「そういえば大学でdeseanとかいう冴えない中年男に習ったっけ」とでも思い出すか、もしくはまったく記憶から消されてるか、でしょう。それでもいいしそんなものです。

台湾日記

ブログがこれに代わって以来、前にもまして書き込む気が起きなくて。

最近ツイッターで「40代以降に起きた社会の変化は全部「悪いもの」に思える」みたいなのがまわってましたが、まさにそれに罹患してます。

 

久々の海外。台湾です。

研究とはひとまず関係ない、いわゆる校務。

中国研究者が中国に行かないというのは致命的なのでしょうが、もう諦めてるというか、そもそも「書かれたもの」が対象なわけだから、行かなきゃダメってもんでもない、と自分を納得させてるというか。

 

実際、文学研究者の場合、基本は「書かれたもの」を相手にするわけだから、現地に行くいかないは、本質ではない、とはいえます。

たとえば周りのイギリス文学者がしょっちゅうイギリスに行ってるかというと、そうでもないみたいだし。

でも中国文学の場合、やっぱり「中国」の要素は欠かせないというか外せないというか。

中国文学研究者に「中国」と「文学」、どっちに力点があるかというと、わりといい勝負だと思います。これ、(日本の)日本文学研究者だったら、「日本を研究してます」という率は相当低そうです。アメリカ文学やドイツ文学でもたぶんそう。

 

などと脈絡のないことをあれこれ考えているのでした。

正解はあるのか

まだ早いよといわれるでしょうが、娘の将来、いろいろと考えてまして。

もちろん本人の意志を尊重するのは大前提ですが、その前段階にお膳立てをするかしないかは、やはりある程度決めなくてはなりませんし。「習い事も塾も何も行かない」というのも、それはそれで決断が必要になる。

 

大きくいえば、「日本か、それとも海外か」というところでしょう。日本もこの先、ろくなことになりそうにないし、だったらある時点で海外へ送り込んで、というのは当然考えます。

 

しかし一方、私が行ったり見聞きしたりする限り、日本人に生まれたからには、日本が一番暮らしやすそうですよねえ。

もちろん、いろんな種類の才覚があれば、海外の方が断然成功しやすいでしょう。が、才覚があるかどうか、いつどこで判断すべきか。本人の意志はどこまで考慮するべきか。あれ、「本人の意志を尊重」だったよな?とか。

 

悩みはつきません。そして正解もたぶんないのでしょう。が、一方「誤答」はあるのですよね。やっちゃダメなことはある。でも、正解はない。いやはや、なんとも難しいですね育児って。