n=1
最近、ブコメなんかで、「n=1」というのが多くは揶揄で使われるようになってます。
つまりは、「そんなのサンプル数1だ」というの。
「私はこうしたらこうなった」みたいな体験談で、よくこのブコメがつきます。
それはたしかにそうです。体験談は、ほとんどがサンプル数1。2回やって2回とも、というのもありえますが、同じ人の体験であれば厳密にサンプル数2とできるかは、微妙です。
これ、これまた最近(個人的に)ホットな「質的/量的」にもかかわるというかズバリこれですね。
質的研究で対象についてインタビューやらなにやらでいくら精緻に調べたところで、量的の人にとっては「だってそれn=1じゃん」で終わり。
この違い、我ながら本当にホットで、文学研究ってはたしてどっちなんだろうと考えたりします。両方ありうるけど、多くはやっぱり質的だよな、そもそも作家論って質的だし、とか。
そんなことを考えている(事実上の)春休み。
故郷から遠く離れて
新年早々、父が亡くなりました。
今大流行中のインフルエンザ。そしてこれもしばしば報道されるように、施設で罹患。
施設はこういう時にどうしようもないですね。
昨日、火葬にしてきたのですが、完全な家族葬。
なにしろ、ずっと宮城県で暮らしてきた父ですので(倒れた5年前に呼び寄せ)、こっちに知り合いも親戚も誰もおらず。
父のきょうだいがちらちらと電話をよこすものの、みな「ちょっと遠いので、今回は行けないわ」と。まあ私もその方がありがたいのです。
で、姉一家とうち一家でひっそりとお見送り。
故郷から遠く離れて住み、死ぬと、こういう風になるのですね。もちろん、だからよくない、とはいえません。周りの人には「羨ましい」「もしうちの親が死んでこういうこと(家族葬)したら、親戚に何いわれるか」といわれてます。
私もおそらく、故郷から遠く離れた地で死ぬことになりそうなので、まあこういう形でひっそりこの世から消えるのでしょう。まあそれもよし。
足したり混ぜたり
娘におもちゃを買い続けています。
もちろん、買ってあげた時の嬉しそうな表情が麻薬になっている、というのが大きいですが、それに加えて、「いろんなものを混ぜて新しいものを作り出す」みたいなのをやってほしいなと。
おもちゃ、一種類だけなら一つの遊び方しかできません。それが、2つ、3つと増えるとともにその組み合わせで何十通りの遊び方が生まれるんじゃないかと。
これ、私が普段やってる研究の反映でもあるのでしょう。私の研究、基本これです。違うものをあれこれ混ぜ合わせて、「これってこういうふうに読めるんですよ」というの。全集をひたすら読んで細かなところに着目するとか、ある事象をひたすら突き詰めるような研究、もちろんそれは一つのスタイルですが、私はあんまり興味ない。
というのも、それじゃあ作家なりジャンルなりの枠を一歩も越えられない。枠を決めて「私はこの中の事象しか研究しません」というの、このご時世において何の意味があるんだろうと。
おもちゃもそう。一つだけ与えて「これで遊べ」といったところで、そのおもちゃに隷属するだけです。他のと混ぜ合わせることで、初めておもちゃが自分のものになる。
なんて理屈を考えてます。まあ、喜ぶ顔が見たいというのが9割ですが。
オバケが来るぞ
子供を叱る時、その「理由」は、みなさんどうしてるのでしょうね? どうするのがいいのでしょうね?
たとえば子供が食べ物をポイっと投げた時(うちの娘はよくやります)、どう叱るのがいいのか。
「そんなことをしたら食べ物さんが悲しむでしょ」←妻はわりとこれ
「汚したら拾うのはオレなんだぞ」←私はわりとこれ
「食べ物を投げるというのはやっちゃダメになってるのだ」
「そんなことしたらオバケが来るぞ」
あとなにかあるかな。
「ダメなものはダメ」でもいいんでしょうし長らくそれで通ってきたんでしょうが、まあなんか、理由がほしいんですよね。