人間の要素

入試関係のお役目に就いたこともあって、学力の三要素やら英語の四技能やら、そういうのに関わることが増えてきています。

以前から、こういうのにほぼ意味を感じていませんでした。で、関わるようになって、その思いがますます強くなってきています。

『生命に部分はない』という本がありますが(読んでませんが)、人間の要素に部分もないのですよね、たぶん。この部分の能力(だけ)を伸ばすとか、ありえない。仮にありえても、そんなので伸びた能力が役に立つとも、思えない。

でも現実には、「この要素を伸ばすためにこの受験科目を課さなければならない」とか、大真面目に議論されているわけです。言葉遊び以外の何物でもない。こんなのに意味がないことは、たぶん実はみんなわかっている。やらせようとしている人もわかっている。でも、やめられない。

そんなこんなで、ほとほと嫌になってます。が、私もやめるわけにはいきません。いやいくかもしれないけど、後のことを考えると。

うれしくもなし

今日は46回目の誕生日。
このブログを始めたのも誕生日だし、毎年この日には欠かさず書いてるだろうな、と思って調べていったら3年目であっさり覆されました。
今の大学だと、この時期は授業もなく、また会議もほぼなし。ただそれゆえにこれまでは中国に行っていることも多かったのですが、今年はそれもなし。まことに静かな誕生日です。

46回目ということはさすがに人生の半分は超えただろうなあと思います。70までは死にたくないな、でも80までは生きたくもないかな、などと考えるのも、我々世代には共通してるんじゃないかとも思います。

特にここ数年、いろいろ見てきましたのでね。家族ができたり病気になったりボケたり。産まれて生きて死ぬって一体何なんだろうなあと、この歳になってというかこの歳になったからというか、いろいろと考えるです。

人生を悔いのないように生きたいとかいつまでも元気で長生きしたいとか、そんなふうには夢にも思いませんが、一方でもうとっととこの世からおさらばしたいというわけでもない。なんというんでしょうか。惰性というか投げやりというか。ま、死ぬまでこういうモヤモヤは続いていきそうです。

ヘタのメタ好き

最近、完全にメタにしか興味がなくなっています。

といいつつ、このメタというのをどう説明するかはなかなか難しいのですが、「「○○論」論」という感じでしょうか。つまりは、誰かが何かを論じているその様を論じる、というの。

このメタというのは、端的にいって、評判が悪いです。「自称中立」だの「高みの見物」だの、「○○を論じている人たち」からの非難を浴びがちです。まあそりゃそうでしょうね。一生懸命議論している脇から「この人の議論は、まるで何々を想起させる」とかいわれたら、うるせーよとムッとくるのは当然です。こっちは一生懸命議論してるのに、偉そうに茶々入れやがって、と。

なので私も他人に好かれないだろうなあという自覚は持ちつつ、しかしそれにしか惹かれなくなっていっているのは、メタこそが「今ここにいる自分」のリアルだからでしょうかね。

中国文学なんてのを専門にしているわけですが、私にとって、「中国」も「文学」も、しょせんは他人事なんですよ。

中国って、いってみれば余所のお話です。中国人はこう考えるとか、中国ではなにが流行っているとか、それが自分にとって差し迫ってなにか重要な問題かというと、別にそうでもない。

文学もそう。別に文学で生計を立てているわけじゃない。日常的に文学を読むわけでもない。仕事として最低限は読みますが、同じ読むならツイッターとかまとめサイト読むほうがよっぽど面白いし、「勉強」にもなる。

と考えると、どの作家がこの時代に何を書いてどうのこうのって、どうにも自分事にはならない。遠い世界のお話。「1930年代になんとかいう作家が何を書いたのがどうした」という論文に、リアルを感じられないのです。

ところがメタだと、それはまさに自分事になるのです。今、自分の隣にこんなことをいってるやつがいる。その言い方、私にはどうにも理解できない。それってどう考えても違うだろ? と、急に身に迫ったものになるのです。
さらには、メタというのは往々にして「そう感じる自分」も標的になります。なんで私は、この問題についてこう考えるんだろう。むしろこっちこそが、メタの醍醐味なのかもしれません。「今、自分はなぜこう考えるのか」論。そしてそれに一定の結論がでても、それはつねに更新されていきます。「なぜあの時自分はこう考えたのか」「なぜあの時「あの時自分はこう考えたのか」と考えたのか」と永遠に続く。まあ苦行ですが。


いうまでもないことですが、これは私の勝手な感情というか性質ですので、他の研究者みなこうあるべしというわけではまったくないのです。1930年代にリアルを感じる人はそれを書いてもらってまったく構わない。

ただ私は、何しろ想像力が貧しいので、違う時代・違う地域に生きている人に同情なり反感なりを感じることって、できないんですよね。さらにいえば、自分にしか興味がないのです。他人がどう考えてるかなど、知ったこっちゃないというか、知れるわけがないというか。


というわけでこれからもメタで生きていきますのであしからず。

変わったもの

あと半年だからというわけでもないのですがちょっと懐古的になると、ここでブログを始めて13年ほど、変わったものといえば、中国ですよねえ。

私の専門だからというのもあるのでしょうが、その頃は、まさかここまでになるとは、中国人を含めてもほとんどの人は考えもしなかったでしょう。

お隣さんが子沢山で生活が大変そうだなあと若干の優越感を覚えながらも眺めてたら、あれ、車買った。あれ、家建て替えた。あれ、あれ、という間にもはや比べ物にならないくらいの金持ちになってました、という感じ。

もちろん、うちからカネを騙し取って金持ちになったわけじゃないので批判する理由はないんだけど、でもなんか、気に入らない。しょせん成金じゃないか、そうやって後先考えずにパッパとカネ使ってたら、そのうち大きな借金抱えちゃうよ、と皮肉も一つもいいたくなる、みたいな。

ほんと、中国社会、この先どうなるんでしょうねえ。私には皆目見当もつきません。自分が死ぬ頃にはどんな国になっているのか。

で、中国やっててよかったなあと思うですよ。このドキドキ感、他の地域研究じゃ(たぶん)味わえないんじゃないでしょうか。

青春の一頁

夏も終わりに近づいて、「はてなダイアリー終了」のニュースが飛び込んできました。

終了は来春だそうです。もうカウントダウンですね。

サービス開始は2003年3月だそうですが、私が始めたのは今見たら2005年9月でした。

なんでこれを始めたのか、今となってはハッキリとは思い出せないのですが、たしかその前からHP(とっくに閉鎖)をやってて、でもその管理が面倒なので、今流行りのブログってやつにしてみよう、その中でもはてなってのがよさそうだからこれにしよう、という感じだったような。

当時は大学を取り巻く環境もまだのんびりしてたし、また私自身ヒマだったしで、日がな一日ブログ見て、書いてたものでした。そして、自分の内面をブチまけるのがこんなに楽しいとは、ということに気づいたのも、ここからでした。

その後、徐々にツイッターの方に時間をかけるようになっていって、こっちはせいぜい週1回ぐらいになっていますが、それでも、私の本拠地はここだ、と今でも思っています。


はてなブログに移行しなさい、とのことで、チラッと見てみたのですが、なんか違うんですよね。あんまりピンとこない。
とはいえ他に選択肢もないので、時期が来たらそっちへ移行することになりそうです。

はてブに「私の青春の1頁」と書いてる方がいましたが、私もまさにそう。始めたのが30代になってからなので青春とはおこがましいですが、でも気分的にはそれ。


あと半年ぐらい。せいぜい面白いこと書こうと思ってます。

専門家

今さらですが、専門家の地位、揺らいでますよね。

このあまりに多様化かつオタク化した世の中では、もはや専門家を名乗れるのは狭〜い分野のみ。日本近代文学の専門家なんでとてもじゃないが名乗れない。せいぜい「前期谷崎の専門家」とか、そのぐらい。

でもいっぽう、専門家としての自負というかプライドというか、それは以前と変わらないんでしょうね。ips細胞の専門家だろうが前期谷崎の専門家だろうが、専門家は専門家。なので、一家言あるべきだし、そういうポジションにいると思い込む。で、専門外で余計なことしゃべって、炎上する。

かくいう私も、こことか、ツイッターで、偉そうにペチャクチャしゃべってます。まあいいんです失うものもないし。

ガイジンの要らない国

中国、年々、ガイジンにとって不便な国になっていってますよね。

なにより、お金。全部スマホ決裁で、「中の人」にとっては便利なんでしょうが、「外の人」は不便この上ない。

そもそも、両替ができなくなっていっているのですよ。去年までは「中国銀行の限られた支店」ではまだ待たされても両替できてたのが、今はそれもできなくなっているとか。加えてVISAやらJCBやらも使えなくなっていっている。銀聯ですらダメだったり。じゃあガイジンのスマホ決裁がしやすいかというと、中国国内の口座が必要とかでこれまたダメ。

一生に一度来るかどうかの旅行者だったら、べつにいいでしょう。一方、留学とか駐在とかで住むとなったら、これまたやりようもある。

我らのように、年に何回か来る、ぐらいが一番不便。

国がイケイケのときは、ガイジンの都合なんてどうでもいいんでしょうかね。