ヘタのメタ好き

最近、完全にメタにしか興味がなくなっています。

といいつつ、このメタというのをどう説明するかはなかなか難しいのですが、「「○○論」論」という感じでしょうか。つまりは、誰かが何かを論じているその様を論じる、というの。

このメタというのは、端的にいって、評判が悪いです。「自称中立」だの「高みの見物」だの、「○○を論じている人たち」からの非難を浴びがちです。まあそりゃそうでしょうね。一生懸命議論している脇から「この人の議論は、まるで何々を想起させる」とかいわれたら、うるせーよとムッとくるのは当然です。こっちは一生懸命議論してるのに、偉そうに茶々入れやがって、と。

なので私も他人に好かれないだろうなあという自覚は持ちつつ、しかしそれにしか惹かれなくなっていっているのは、メタこそが「今ここにいる自分」のリアルだからでしょうかね。

中国文学なんてのを専門にしているわけですが、私にとって、「中国」も「文学」も、しょせんは他人事なんですよ。

中国って、いってみれば余所のお話です。中国人はこう考えるとか、中国ではなにが流行っているとか、それが自分にとって差し迫ってなにか重要な問題かというと、別にそうでもない。

文学もそう。別に文学で生計を立てているわけじゃない。日常的に文学を読むわけでもない。仕事として最低限は読みますが、同じ読むならツイッターとかまとめサイト読むほうがよっぽど面白いし、「勉強」にもなる。

と考えると、どの作家がこの時代に何を書いてどうのこうのって、どうにも自分事にはならない。遠い世界のお話。「1930年代になんとかいう作家が何を書いたのがどうした」という論文に、リアルを感じられないのです。

ところがメタだと、それはまさに自分事になるのです。今、自分の隣にこんなことをいってるやつがいる。その言い方、私にはどうにも理解できない。それってどう考えても違うだろ? と、急に身に迫ったものになるのです。
さらには、メタというのは往々にして「そう感じる自分」も標的になります。なんで私は、この問題についてこう考えるんだろう。むしろこっちこそが、メタの醍醐味なのかもしれません。「今、自分はなぜこう考えるのか」論。そしてそれに一定の結論がでても、それはつねに更新されていきます。「なぜあの時自分はこう考えたのか」「なぜあの時「あの時自分はこう考えたのか」と考えたのか」と永遠に続く。まあ苦行ですが。


いうまでもないことですが、これは私の勝手な感情というか性質ですので、他の研究者みなこうあるべしというわけではまったくないのです。1930年代にリアルを感じる人はそれを書いてもらってまったく構わない。

ただ私は、何しろ想像力が貧しいので、違う時代・違う地域に生きている人に同情なり反感なりを感じることって、できないんですよね。さらにいえば、自分にしか興味がないのです。他人がどう考えてるかなど、知ったこっちゃないというか、知れるわけがないというか。


というわけでこれからもメタで生きていきますのであしからず。