足したり混ぜたり
娘におもちゃを買い続けています。
もちろん、買ってあげた時の嬉しそうな表情が麻薬になっている、というのが大きいですが、それに加えて、「いろんなものを混ぜて新しいものを作り出す」みたいなのをやってほしいなと。
おもちゃ、一種類だけなら一つの遊び方しかできません。それが、2つ、3つと増えるとともにその組み合わせで何十通りの遊び方が生まれるんじゃないかと。
これ、私が普段やってる研究の反映でもあるのでしょう。私の研究、基本これです。違うものをあれこれ混ぜ合わせて、「これってこういうふうに読めるんですよ」というの。全集をひたすら読んで細かなところに着目するとか、ある事象をひたすら突き詰めるような研究、もちろんそれは一つのスタイルですが、私はあんまり興味ない。
というのも、それじゃあ作家なりジャンルなりの枠を一歩も越えられない。枠を決めて「私はこの中の事象しか研究しません」というの、このご時世において何の意味があるんだろうと。
おもちゃもそう。一つだけ与えて「これで遊べ」といったところで、そのおもちゃに隷属するだけです。他のと混ぜ合わせることで、初めておもちゃが自分のものになる。
なんて理屈を考えてます。まあ、喜ぶ顔が見たいというのが9割ですが。
オバケが来るぞ
子供を叱る時、その「理由」は、みなさんどうしてるのでしょうね? どうするのがいいのでしょうね?
たとえば子供が食べ物をポイっと投げた時(うちの娘はよくやります)、どう叱るのがいいのか。
「そんなことをしたら食べ物さんが悲しむでしょ」←妻はわりとこれ
「汚したら拾うのはオレなんだぞ」←私はわりとこれ
「食べ物を投げるというのはやっちゃダメになってるのだ」
「そんなことしたらオバケが来るぞ」
あとなにかあるかな。
「ダメなものはダメ」でもいいんでしょうし長らくそれで通ってきたんでしょうが、まあなんか、理由がほしいんですよね。
物語vs.物語
今はこの本を。
- 作者: 岸政彦
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2018/10/30
- メディア: 単行本
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このなかで、物語が重要なキーワードになっています。つまりは、「社会の物語化」への抗い。
ここのところ、物語が巷に氾濫しています。就活も地域活性化も、もう全部物語。要は物語マーケティングです。ストーリーにしてわかりやすく話せ。そうすれば客は食いついてくる。
……という動きを批判している。ものすごくまとめてしまえばそうなると思います。
しかし一方、物語研究の本家といえる文学研究は、こうした「社会の物語化」の議論に、やや冷淡というか蚊帳の外なんですよね。賛同であれ批判であれ、それに関与していくという動きは、あまり見えない。
むしろ同書のように、社会学なんかから、「社会の物語化」にどう対処するべきか、という議論が起きている。
別に文学に絶対に関与しなきゃならない義務があるわけではないですが、そのへんをどう架橋するかという論文を、今書いてまして。という宣伝。
基本を学ぶ
これが出ました。
- 作者: 中国モダニズム研究会
- 出版社/メーカー: 関西学院大学出版会
- 発売日: 2018/11/05
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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私もチロっと書いてます。
ついでに、今、授業ではこれをテキストにしています。
- 作者: 中国モダニズム研究会
- 出版社/メーカー: 関西学院大学出版会
- 発売日: 2016/10/10
- メディア: 単行本
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ただ正直、なかなか難しいなあと思ってまして。
執筆者、みなさん中国のプロなので、できるだけマイナーな、とっておきの文献や情報を載せてるのですよね。
一方、私の授業の受講生は、ほぼみんな中国素人。中国のちゅの字も知りません。
この辺のミスマッチが、授業やる身としてはなかなかしんどいのですが、ただ今どき、「基本的な知識」などという定義自体が無意味なのかもしれないので、好みの問題なのかも。
いい文章ってなに?
大学のレポート作成・採点の時期になると、ネット上で大学教員が「いい/悪いレポート」についてあれこれ言い出すのが風物詩になっています。
近年では、「余計なこと書くな」が主流。末尾に「私はこうすればいいと思う」「私はこうしていきたい」みたいなのを入れちゃダメ。そんなのこっちは期待してない。事実に基づいて淡々と書けばいいのだ。という。
まあわかるのですが。
でもいっぽう、私の専門が文学だからかもしれませんが、それじゃあつまんないよな、とも思うです。
それじゃあ個性が出ない。ロボットが書いたような文章に何の意味があるんだろう。そりゃ将来、会社の報告書に詩的な文章書いたら怒られるだろうというのもわかるけど、でも「1たす1は2です。」みたいな文章書いてりゃいいんだというのには、100%の同意はできないのです。
私は「この人物は野に咲く一輪の花のように可憐な人生を送った」的な文章も、それなりにアリだと思うのですよね。もちろんそういう文章は往々にして滑るわけですが、それはそれでアリ。まあ限度はあるだろうけど、そのあたりで多少の個性を出すのは、ダメじゃないんじゃないか。
などと考えるです。まあ私も、自分の文章にはまったく自信がないのですが。
安楽椅子研究者
中国になかなか行けなくなりました。
中国研究者として、由々しき事態です。
が。
今では、ネットでいくらでも現地の情報が入ってくるのですよね。
日本語で読めるものも多いし、現地のも含めれば、その量は膨大です。とても見きれないほど。
一方、中国に行ったって、行くのはせいぜい図書館と本屋。あとは街をブラブラ。
ナマの中国人と触れ合う機会、実はほとんどありません。せいぜい、現地の大学の先生ぐらい。それ以外の知り合いなどいないし。あとはタクシー運ちゃんが話しかけてきたら応答する程度。
下手すりゃ、日本にいる時のほうが、留学生や同僚やらの中国人と接する機会が多いほどです。
なのでまあ、悲観することもないのかなあと自分を慰める今日このごろです。
留学生の季節
この時期は、留学生が来て、いろいろ手続きする時期。
まあしかし、留学生、特に中国人留学生も、様変わりしました。
ちょっと前までは、明らかに余裕がなかった。たいていが、はじめての海外。緊張が明らかに伝わってきた。
が、今では、みんな落ち着いたものです。留学に来るような学生は、海外慣れしてるんでしょう。ああなるほど、これをやるわけですね、わかりました。とみんな落ち着いた対応。
北京の有名大学から来た学生に、「なんでうちみたいな田舎に来たの?」と聞いたら、「都会は騒がしいので、1年間、のんびりと過ごしたかったんです」と。
ぜひ、田舎暮らしを楽しんでいって下さい。