逃げ道としての研究

われわれのお仕事、研究があるという一点で、ずいぶん救われている面がありますよね。

逆に言うと、研究のない(この世にあるほとんどの)仕事、たいへんだなあと思います。

つまり多くの仕事では、評価の基準が一点です。有能か、普通か、無能か、同じ基準で計られる。仕事ができない人間は端的に無能ということになってしまう。もちろん、「あいつは仕事ができないくせに上司におべんちゃらばかり使ってる」とかはありますが、基本は、その一つの評価軸から逃れられない。


ところがオレらの場合、研究があるのですよ。

仮に校務が全然できなくても、「あんなの、オレの本来の仕事じゃない。研究してナンボなんや」という言い訳が、使える。

もちろん、実際に「本来の仕事」は研究である、とはいえます。なので、いわゆる「仕事ができない」人も、そこまで心を痛めずにすむ。


しかも、研究には、絶対の評価基準がありません。

もちろん科研に通ったかどうかとかはありますが、でも研究者でそれがすべての基準と考える人は、とくに文系では少ないんじゃないでしょうか。「審査員に何がわかる」みたいに考える人も、多そう。単純な論文数で計るのはさすがにありえないでしょうし(もちろん、論文数に意味がないわけではなくむしろ評価の多くの割合を占めるとは思いますが)。別にランキングをつねに出されているわけでもない。

なので「オレの研究はすごいんだ」という自己評価が、わりと簡単にできちゃうんですよね。想像するに、全研究者の間違いなく半分以上、ひょっとすると8割ぐらいは、「自分の研究は(本当は)すごい」「上位10%には入る」「(でも忙しくてなかなか研究できないけど)」と思っていそうです。

(実際、正直なところ仕事のできない先生が、自分の研究については生き生きと語り、自分の研究がいかにすごいかを力説する、という場面には、日常的にお目にかかります)


評価の基準が複数あるというのは、精神的にずいぶん楽です。

そういう意味でもこの仕事、いいよなあと思うのですが、でももちろん同僚にはストレスから体(や精神)を壊す方もおられるので、難しいものです。