ああ修士論文

今日は修論発表会。

いいのもあれば、いまいちなのもあれば。

わたし的に一番よかったのは、おそらくリタイア後であろう年配女性(顔はよく見るのですが素性は知らず)のもの。「戦前の高知県から北海道への移住」を扱ったもので、文献資料に聞き取りを交えて、たいへん素晴らしいものでした。これ、博論でも行けるんじゃない? 単行本として出版しても面白いんじゃない? と思えるものでした。


でも(文系の)修論って、微妙なポジションですよね。

卒論なら、「やっつけ」というのは、ある程度織り込み済みです。多くの学生は、勉強なんてできればしたくないし、卒論なんてできれば書きたくない。仕方なく卒論書いてる。それはまあ、わかります。

一方博論は、さすがにもう入口というか出口なしというか。後戻りできない逼迫感があります。


でも修論って、中途半端ですよね。修士は(少なくとも名目上は)勉強したい人がわざわざ入るわけだから、「修論書きたくない」なんて人はいない(はず)。
でもかといって、修士論文を書いたところで、その段階では何がどうなるものでもない。せいぜい、博士課程の登竜門、というだけ。博士に行かない人にとっては、それだけでは、何の意味もない。
とくにうちみたいな地方国立の大学院はそう。博士に進む人など、ほとんどいません。修士課程入った。修論書いた。よくできました。以上。

中国人留学生のように「とりあえず日本の大学の修士号を持っていれば就職に有利」というならよくわかりますし、また専修免許云々というのも、わかります。が、それ以外の場合、そのモチベーションというかインセンティブというか、それはものすごく難しいと思います。

「北海道移民」で発表された方も、いい修論を書いたところで、何がどうなるわけではありません。まさか「本として出版して儲けたい」とか「研究者になりたい」というわけでもないでしょう。なので、偉いなあ、すごいなあと、純粋に感心するし、感動すらしました。


……でも、さらに考えると、「何のインセンティブもなしで研究するのは/するほうが、素晴らしい」と私が考えるのも、変といえば変ですよね。

べつに「金儲けのために大学院に来ました」だって、全然かまわないはず。なのに、「なんの利益もなく、純粋に研究をする」というのにより惹かれるのは、なんでなんだろうと。

これ、まさに精神論ですよね。無私の精神こそが、研究では大事。金儲けとか、インセンティブとか、そんなのは邪道。みたいなのは。

こういう精神論を持ってるのは私だけかな。いずれにせよ、この院生さん、そしてほかの院生さんたちも、お疲れさまでした。