内部の論理/外部の論理

今はこの本を。

面白い。私の興味関心にピッタリです。


1行でまとめれば「保守的で差別的とイメージされるアメリカの建設労働者には、彼らなりの論理があったのだ」論、となるでしょうか。

で、その論理をこれもひとことでまとめれば、「こっちは生活かかっとんねん」となるでしょう。とくにカトリック系白人を中心とするコミュニティで、父から息子へと代々受け継がれてきた、建設作業員という仕事、その誇りある仕事が、マイノリティや、女性に、奪われようとしている。しかもあいつら、オレたちが長年築き上げてきた伝統、礼儀、そして仕事の作法、そんなのこれっぽっちも守ろうとしない。一顧だにしない。そんなやつらに、オレたちが命をかけてこの街(NY)を創ってきた、その気持ちがわかるかボケ。


そんな勝手な論理など知るかボケ、と返すこともできるでしょうし、事実社会はそう動いてきました(1970年代にこのコミュニティはほとんど壊滅する)し、これからもそうなっていくでしょう。そしてそれはいいことなのでしょう。


が、「内部の論理」が「外部の論理」の攻撃を受け、浸食されていく、というイメージは、私には他人事とは思えませんでした。


つまりは、「人文系研究者」というお仕事、です。昨今世間を騒がせているように、「こんなの要らない」という人たちが、います。それに対して人文系研究者(のほとんど)は、「それはおかしい、オレたちには意味がある」と反論してます。


この図式が、アメリカの建設労働者をめぐる状況と、まったく違う、といいきれるでしょうか。


ちなみに、建設労働者のコミュニティ(組合)の「頑迷で、差別的」というイメージは、経営者側に「悪用」され、より安価に使えるマイノリティを大々的に雇用する、その理由になっていく、というのも、何ともいえない後味の悪さがあります。いろんな方面から刺激を受けた本でした。