クソリプとしての国語
週末の恒例行事。私の出動は昨日のみ。
お仕事中、することないので、例によって問題を見てました。ほんとに、他にすること、ないんです。
国語。まさにツイッターで話題になっていたように、ツイッター論でした。いわゆるクソリプについて。
オレがむしろ気になったのは、もう一つの問題を解いていて。
小池昌代「石を愛でる人」。小説というよりはエッセイといっていいような文章です。
この文章がおかしいというわけではないし、また問題に不明瞭な部分があるというわけでもありません。
むしろ逆、明確にしすぎているんですよね。
問2 傍線部A「言葉を持たない石のような冷ややかさがその冷たいあたたかさが、とりわけ身にしみる」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを…
問4 傍線部B「当日は雨だった。しかし石を見に行くのにはいい日のように思われた。」とあるが、それはなぜか。その説明として最も適当なものを…
問2の答えは、「石と互いに干渉せずに向き合うことは、言葉を交わす人間関係の煩わしさに疲れていらだった心を癒し、ほっとするような孤独を感じさせてくれるということ」。
問4の答えは、恥ずかしながら、わかりません。「わたしは亡くなった女性詩人と同じように、昔から誰にも邪魔されない孤独を愛していたため、傘に囲まれた空間に安らぎを感じている。そのため、雨の日はかえって外出の億劫さが和らぎ、他人の目を気にせず石を見に行くことができると気づいたから。」かなあ。でもちょっと引っかかる部分があるんですよね。違ってたらごめんなさい。
これ、どう考えてもこれ説明過剰であり、余計なお世話ですよね。こういう文章で、そういう説明しちゃあ、おしまいじゃない?
いやまあ頑張って説明すればそうなるんだろうけど、でもそれを説明することで、文章の余韻とか読み手の考える幅とか、そういうのが一切消されてしまう。「石を見に行くにはいい日のように思われた」って、それ以上説明しようがないし、だからこそいいんだ(と読み手によっては考えるんだ)と思うんだけど、それを説明するなんて、お節介すぎるだろう、と。
ふと気づくに、この設問−解答自体、クソリプじゃないですかね?
もしツイッターで「今日は石を見に行くにはいい日ですね」とつぶやいて、「ああ、あなたは亡くなった女性詩人と同じように、昔から誰にも邪魔されない孤独を愛していたため、傘に囲まれた空間に安らぎを感じている。そのため、雨の日はかえって外出の億劫さが和らぎ、他人の目を気にせず石を見に行くことができると気づいたんですね」というリプが返ってきたら、心底ガッカリすると思います。典型的クソリプ。
第1問でクソリプに代表される「過剰な啓蒙意識」をdisる文章を載せておきながら、設問でまさに「過剰な啓蒙意識」を体現するという、高度な技だったのではないか、これ自体、「「国語」という科目の孕むクソリプ性を批判する」という、戦略的な試みだったんじゃないだろうか。問題作った人、すげー。
などと思ったのでした。