哀しみのコミュ力
学生さんたちと就職の話になると、「コミュ力」というのがすぐ出てきます。
やっぱコミュ力だよね〜、みたいに。
先日、初年次教育で「働く意義」みたいな話題で話させた時も、「働く上で必要なのは、コミュ力!」という結論に5分ほどで達しました。「だから大学ではコミュ力を鍛えたいです」みたいな発表。
う〜ん、です。
ネット社会になって、厖大な情報がウェブに集積されるようになりました。
どこでメシ食うか。どこでバイトするか。どうやってレポート書くか。どうやって結婚するか。それらについての厖大な情報が、ネットにある。
すると、「突きつめれば、答えはこれじゃね?」みたいなのが、だいたいわかってくるようになります。
そして、「人生楽しむには、何が必要?何が大事?」の、現時点での答えとして、コミュ力というところになっている、という状況なのではないでしょうかね。
一生懸命勉強したところで、見返りはあまりにも少ない。中途半端に頭がよくても、コミュ力がないと、就職で苦労するし、就職先でも苦労するし、恋人はできないし。むしろコミュ力があれば、多少頭はアレでも、就職でいい会社に入れるし、職場でも楽しいし、恋人もできるし、人生楽しいし。
つまりは人生ゲームの攻略法です。それが、どうやらコミュ力だぞ、ということになった。
しかもコミュ力というのはなかなか絶妙です。同じようなのでルックス、イケメンかどうか、みたいなのもありますが、それはさすがに、どうしようもない。頑張ってどうにかなるもんではない。しかしコミュ力だと、ある程度は何とかなる、ように思われている。頑張って身につけようと思って身につけられそうな。
なので「大学ではコミュ力を鍛えたいです」みたいな発想になる。あるいは、バイトも、サークルも、すべては「コミュ力を鍛えるためにする」みたいな発想になる。
求められるのもそこですしね。つまり就職の面接でサークル活動を話題に出す時には、「全国大会で2位でした!」とかよりも、「自分がいかに苦労してメンバーと仲良くし、まとめたか」ということのほうが、ずっと大事とされています。バイトもそう。いくら稼いだとかどうでもよくて、いかにバイト仲間をまとめたか、重要なのはそこ。
ふたたびう〜ん、です。が、それは違う、それはおかしい、と言いきることも、オレにはできない。「いわゆるコミュ力」がその人の人生を大きく作用するというのは、実感としてあるからです。
最近の文科省の施策を見ても、「学校ではコミュ力を鍛える」みたいなのにシフトしているんですよね実際。あるいはコミュ力がないのを排除したり。「すべての入試に面接を課す」とかまさにそう。ツイッターでも書かれていましたが、「面接を課していたらおそらく落とされていただろうタイプの学生」は、確実にいます。そういう学生は最初から排除して、もう学力などは二の次で、「コミュ力の見込みのある若者」にだけそこを伸ばすような教育を行う。グループワークとか完全にそうですよね。いかにグループのメンバーと仲良くやるか。求められるのはそこだけです。出した結論とか、結果とか、どうでもいい。
みたびう〜ん、です。そして何より致命的なのは、オレ自身がコミュ力がないことがわかっているからです。困った。