勉強=ご飯

昔から思っているのですが。

社会科学系とか、あと人材養成系って、「○○を注入する」みたいな考え方、好きですよね。

セミナーで、この時これを入れれば、この部分が伸びる」みたいなの。

大学のキャリア教育でもよくやられています。

まったく根も葉もないこととは思いません。それなりには意味がある、んでしょう。

でもですねえ。


今まで死ぬほどやって来た勉強・受けてきた授業の内容において、「私のこの考えは、あの時のこの授業内容に基づいている」「私のこの習性はこの勉強から」みたいなの、そう簡単に抽出できるものですかねえ。

例えば中国語。今、なんとかニーハオシェイシェイぐらいはいえるようになったの、数限りない授業、勉強、そして日常会話から生まれてきたものです。「あの時李先生にこれを習ったからこの単語がいえるようになった」とはとてもいえませんが、そういうのもごちゃ混ぜになって今がある。

今までいろんな先生に習ってきました。「で、何を習ったの?」「どんな授業だった?」といわれても、じつはほんの断片しか浮かんできません。思い出すのは雑談とか、あとは怒られた時とか。でもいわれたことは、たぶん血肉になっている。


私がこれで類推するのは、ご飯なんですよね。「昨日食べた唐揚げの栄養で、今、右手を上げている」「一昨日のカツ丼で今、脳を働かせている」とか、いえるわけがない。いや、厳密にいおうと思えばいえるのでしょうが、誰もそこまで気にしない。「キチンとした効用が見えないので、唐揚げに意味はない」とは、いわない(これも、いおうと思えばいえるのでしょうが)。

もしかしたら、今後「必要最小限」の栄養素の錠剤なんかができるのかもしれません(もうできている?)。「唐揚げなんて無駄な部分ばかり。体を動かすならこの錠剤飲めばいい」「脳を働かせるのはこの錠剤を」みたいに。でもそういう世界に生きたいとは、あんまり思いません。


勉強も、そうだと思うのですよね。数限りない教師や本との出会いから、今がある。「これはあの時のあの授業で身についた」とはいえないけど、でも血肉になっている。


昨今、「(とくに大学)教育では、目に見える成果を」といわれることが多いのですが、そんなとき、こういうことを思うです。