蟻の一穴

昨今の大学改革を見聞きしたりほんのちょっと関わったりして思いますが、大学でぐらい「建て前」を語れなかったら、どこで語るんだろう、と。

文科省なんかがいつもいうのは「リーダーシップ」です。要は学長に権限を集中させる。教授会など要らない。教授会の決定なんか待ってたら何も決まらないし、何も変わらない。そんなの無駄。ということなんでしょう。

もしかしたらそうなのかもしれません。ぶっちゃけていえば。

しかしですねえ。

だとしたら、大学で「民主主義」を教えるの、ものすごく欺瞞になりませんかね。


民主主義とは何か。たぶん「話し合え」ってことでしょ、一義的には。みんなで話し合え。

もちろん国民全員で話し合うことはできないから選挙で代表を決めるとか、代替措置はあるんですが、基本は「話し合え」なはずです。全員対等。誰が偉いとか誰が決めろとかじゃなく、全員が議論の参加者。

なのに大学から「話し合う機会」を奪うのは、これ、凄まじい欺瞞だと思うのですが。


これまた「いやいや、経営協議会や理事会でちゃんと話し合っていますよ」ということかもしれません。国民全員が話し合うのが無理なのと同じく、教員全員が話し合うのも無理です。みたく。
あるいは、「別に教授会をやめろといっているわけじゃない。役割分担するんだ」とか「その方が先生たちも、研究に集中できるでしょ?」とか、いうのかもしれません。


しかし、大学や学校って、建て前を語る場でしょ? むしろ建て前しか語れない。「いくら努力しても無駄。人生はどうせどんな親から生まれたかで決まっちゃうんだよ」とか「世の中強い者が勝つ。要はカネ持ってるやつが強い。だから違法すれすれ、あるいは違法なことしてでもカネ儲けなきゃダメ」とか、そういうぶっちゃけ話は語るべきでない。民間企業ならありかもしれませんが、学校がそれを語った瞬間、自らの存在意義を失います。


教授会廃止も、「アホ同士が話し合ったってどうせ何も決まんないんだから、偉い人にバシッと決めてもらう方が話が早いんだよ」というぶっちゃけたメッセージを送ることになりませんかね。そうなると、ただでさえ脆い民主主義のフィクションが、あっという間に崩壊しませんかね。


というわけで、短期的には「物事が早く決まる」という利点はあるのかもしれませんが、長期的に見ると、あんまりよくないような気がします。が、そもそも民主主義なんてものになんの思いもない人たちにとっては、「ええ、民主なんてない方がいいと思ってます」といわれて終了、でしょうか。