状況証拠

昨日はこの本を。


大恐慌下の中国―市場・国家・世界経済―

大恐慌下の中国―市場・国家・世界経済―


素人なりに面白かったです。扱っている時代がドンピシャなので。


しかしこういう「数字を扱う学問」を見ていると、ちょっと羨ましくなることがあるですよ。というのも、オレがやってる文学では、「絶対的な証拠」って、あんまりないからです。


たとえば、「作家Aは外国の作家Bに影響を受けていたのだ」という論があったとします。これ、もしAが日記やエッセイやらで「私はBの影響を深く受けている」とでも書いていれば動かぬ証拠になりますが、論文としてはまったく面白くありませんよね。別に論じるまでもない。

こういう論の場合は、「Aは日記にも何にもBについてはまったく触れていないが、彼の小説の構造を分析すると、Bの小説に極めて近い」とかやるのが一般的。
ただ、これはいうまでもなく、あくまで状況証拠です。100%ではない。

つまり、文学(他もかな?)研究は、「よりうまい状況証拠」を出した者勝ちの世界なのです。


別にだから良いとか悪いではないし、オレ自身はファジーな人間なのでそういう世界に満足していますが、最近、学生に卒論指導をしていて、このへん、ちょっと悩む場合がありまして。

つまり、上の例のように「Aが日記やエッセイやらで「私はBの影響を深く受けている」と書いていた」「だからAはBの影響を受けていた」という論を学生に持ってこられた場合、「これではダメだよ」というその根拠をどこに置くか、なかなか難しいものがありまして。

ダメではない。でも文学論文としてはつまらない。というのって、なんか、根拠が薄いですよね……


前置き(なのか?)が長くなりましたが、その点、数字だと、動かぬ証拠だよな、と、本の内容とはまったく関係のないことを考えながら読んでいたのでありました。ちなみに著者のかたはオレが院生時代にそこの先生をされていましたが、なぜか大学では一度もお会いしたことがなく、他で何度か、という不思議なご縁です。