どこでなんの研究を

昨日は市民講座で、「中国現代大学事情」について偉そうに講義。
その流れで今日はこの本を。本当はこの本の記述も入れたかったのですが、この本の存在に気づくのが遅すぎて間に合いませんでした。


中国高等教育の拡大と大卒者就職難問題-背景の社会学的検討-

中国高等教育の拡大と大卒者就職難問題-背景の社会学的検討-


知らなかったことがいろいろ書いてあって、勉強になりました。


さて、いうまでもなく我々は、どこでなんの仕事をしようが、自由です。

つまり、オレがアフリカに行って中国文学の研究をし(ようとし)たって、誰に文句を言われる筋合いもありません。

ということは前提として、「中国人が、日本(やその他の外国)で、中国のことを研究する意味」は、どんなものなのかなあ、というのが、ちょっと気になりまして。

実は同書の前書きで、著者が、このあたりのことに触れているのです。といってもそのものズバリではなく、「なぜ中国のことを日本で研究するのかといえば、それは…」という記述がわりと唐突に出てきたり(ちょっとわかりにくい理由ではありましたが)、あるいは、「急に日本で研究することになって、辛かった」ということが、今度は理由無しに語られたり。

別にその理由を事細かに説明しなければならない義務などもちろんありませんが、こうやって仄めかされると、却って気になります。


前者、「なぜ中国のことを日本で研究するのかといえば、それは…」に関しては、たぶん著者が、それを聞かれ続けてきたんでしょうね。「その研究、なんでわざわざ日本でやるの?中国のことなら中国にいた方が資料もデータも集めやすいじゃない」みたいに。

「日本でアカポスを見つけたいからです」とは、なかなか言えない、んでしょうかね。もちろん、もし理由がこうだからだとしても、別になにも悪いことはないはずなんですが、日本では、アカポスに汲々とするような態度って、「はしたない」と見られがちですし。


で、さらにちょっと引っかかったのは、同じ「前書き」で、「純粋に研究がしたい」ということが、この上なく持ち上げられている、ということ。なんでも、著者の中国時代の教え子(研究分野も同じ)が、良い仕事に就いていたのに、それを捨てて、日本で博士課程から研究する道を選んだのだそうです。それを著者は大絶賛。

う〜ん、この辺が、よくわからん。「純粋に研究がしたい」のであれば、資料やデータの豊富な中国でやった方がいいと思うけど。あるいは、資料だけじゃなく、もっと広い「研究環境」を考えると、日本の方がいい、ってことかな。


つまり、我々の業界においては、「日本に来てお金を稼ぎたい」あるいは「日本留学という“箔”をつけて中国に帰りたい」という「経済的」な理由と、「研究とはそういう“経済的”な利益とは遠いところにあるべきだ」という広く行き渡っている“お題目”とが、バッティングしてしまう傾向にある、ということでしょうか。「お金を稼ぎたくて日本に出稼ぎに来る」のは、もちろん普通に理解できます。しかし、それが研究だとどうなのか。いやもちろん研究だって全然かまわないのだと思いますが、いっぽうでは、「カネのために研究する」というのは、やっぱりちょっと違和感がある、んですかね。


繰り返しますが、別にどんな理由でどんな研究をどこでやろうが、完全に自由です。オレがアフリカで中国文学の研究をしても誰にも文句を言う筋合いはないのと同様、中国人が日本で中国のことを研究したって、誰も文句を言う筋合いはありません。あるいは、「本当は研究に大して興味はないけど、食うために研究してます」という人がいたとしても、別にそれ自体で非難されるいわれはないし。


ただ、「なんのために勉強するのか」という問題に囚われている者として、「日本で中国のことを研究する人」は、この辺のことをどう考えているのか、ちょっと気になりまして。まあ、面と向かってはあまり聞けない問題でもありますし。