出来事としての書くこと

土曜日はこれに出てきました。


http://www.kansai-u.ac.jp/gp/news/2011/01/post_6.html


なかなか刺激を受けました。とはいえ、むしろいろいろな問題点がますます浮かび上がってきて、なおさらこんがらがった感もありますが。


ふだん教えていて思うのですが、学生の「書くこと」に対するモチベーションをどう上げるか、というのには、けっこう頭を悩ませます。

これが「話すこと」によるプレゼンだと、まだやりやすいのです。プレゼン大会とかいって、学生相互に投票させたりして、ゲーム感覚で盛り上げたり、ということが可能ですし、また、「将来(の仕事)のため」という「脅し」も、使いやすいですし。なにより、もちろん学生にはよるものの、「書く」より「話す」方が、楽しげです。

しかし「書くこと」になると、この重要性を伝えるのは、なかなか難しい。まあ要は、「書くことは面倒くさい」んでしょう。話して伝えればいいじゃん、別に文章にしなくても、と。「コピペ問題」なんかも、その延長線上でしょう。倫理観と言うよりは、単純に「自分で書く」ということの意味が、わからない。どうせレポートで優を取る、ぐらいしか役にたたん、社会に出たら、「10枚のレポート」書くことなんてねーよ、と。

今回のシンポでは4つの大学の取り組みが紹介されたのですが、そのうちの1校では、学生の「書くことのモチベーション」を高めるために、「新聞記者」」と「研究者」を講師に呼んで、「書くことと仕事」に関する講座を開いている、ということだったのですが、逆にいうと、「書くこと」が重要な比率を持つ仕事って、大きく言って「この二つ」ぐらいですよね。大多数の職業では、「書くこと」よりは、「話すこと」が重視されるのは、間違いないでしょう。


しかし一方、大学教育ではむしろ、「話すこと」よりも「書くこと」が圧倒的に重視されている。テストしかり、卒論しかり。
その原因の一つはおそらく、教える側の教員が、基本的には「書くこと」で評価され続けてきた、ということです。我々は、採用や昇任の業績評価においては、ほとんど「書いたもの」でしか評価されません。今でこそ、とくに採用では「模擬授業」を入れるところも増えてきましたが、それでもやっぱり、「書いてなんぼ」の世界ではあります。

その辺のミスマッチ、つまり「書くこと」に対する大学内部での評価と、世間一般(これに関しては、「世間一般」とか軽々しく括るなよ、というお叱りはあるのは承知の上、あえて)での評価とのギャップが、この問題の根幹なのかなあ、と思ったりします。


まあしかし、これもシンポである大学が語っていたように、「書くことによって、その人の人格形成や、あるいは目標などが定位される」という効果は、あるかもなあ、と。

漠然とした計画やなにやらが、「書くこと」によってしっかりと整理される、みたいな議論は、まあよくなされるものですし、実際にそうだとは思います。


ただこれは半分以上雑談ですが、「書くこと」の呪いって、なかなか凄まじいものがあるんじゃないかと。

つまり、「いったん書いてしまったからには、もうそれを引っ込めたり訂正したりすることができない」という症候群。

ブログやツイッター見ていると、主張が完璧に論破され、明らかに論理が破綻しているのに、それでも当初の主張を決して変えず、相手の個人攻撃にすり替えたりする方を、よく見かけます。

これって、「書くことの呪い」なんでしょうね。自分が書いた(はずの)文章によって、自分が縛られてしまう。端から見ていると「なぜそこまで」「もういいよ、素直に負けを認めれば」と不思議この上ないのですが、ボロボロになりながらも「じぶんの書いた文章」を守ろうとする姿は、まさに「呪われている」としか言い様がありません。


で、さらに雑談ですが、オレ自身を考えると、商売柄か、「文章を直される」って、「話し方を直される」よりも、ずっと屈辱的かも。

これもまたある大学の取り組みで、院生を雇い、研修を行って、学部生の文章を直させる、それによって学生はもちろん、院生も、文章力向上につながる、というのがありました。院生1人、だいたい50人近くの文章を見るのだとか。

そこにオレの文章をペラッと混ぜて、どう添削されるか、見てみたい気がしました。「言いたいことが意味不明」「読んでいて疲れます」とか書かれたら、やっぱり「院生のくせにオレの文章にケチつけるなんてけしからん!」と、逆ギレするんだろうなあ。


……相変わらずオチも何もない文章ですね。ギリギリ可、ぐらいか。


ちなみに、昨日ホテルで読んだ『毎日新聞』の斎藤環さんのコラム、オレ的にはピカイチでした。個人的に、目指すはああいう文章ですね。