外国語という悲哀

今日は修士論文中間発表会。中国語チェックでお世話になった中国人院生のを聞きに行きました。


その学生さん、発表はまずまずだったのですが、質疑応答でちょっとしどろもどろに。

まあ、質問された先生の言い方というか聞き方も、ちょっと分かりづらいものだったのですが、彼女はよく聞き取れなかったようで、あたふたした感じで「ええっと、質問がよくわからなくて…」といいつつちょっとズレた答えを述べ、それに対しその先生も、怒るというわけではないけど「う〜ん、僕の言いたいのはちょっと違うんだな」といいつつ質問を繰り返し…どいう、ちょっとした泥沼状態に。


さて、このやり取りを見て、オレも普段なら「う〜ん○○さん(留学生)、まだまだだな」とか思うところですが、なにせ先日、まったく同じシチュエーションに陥った者として、今日に限っては、彼女の気持ちがよく分かったです。そうよね、質問が聞き取れないと、絶望的な気分になるよね。

と同時に、日本語環境でだけ暮らしていると、「言葉が分からない」ということの辛さ・哀しさ、分からないよなあ、と、この先生や、そのやり取りを見て「仕方ないなあ、中国人学生だもんなあ」みたいに失笑していた周りの先生方に対しても、ちょっとした怒りを感じました。


いや、もちろん八つ当たりなんですよ。「外国人だから多少は頓珍漢でも仕方がない」なんてのが研究の世界で通用するはずもありませんし。

でも、気持ちは、よく分かったです。分かったからどうだというわけでもありませんが。