学問の経済的価値

この春に中国の大学へのスタディツアーというやつをやることになって、その事務仕事をあれこれ。

こういう時、秘書がほしいなあ、と本気で思います。先方の大学とのやりとりとか、あと参加学生からパスポートコピーや顔写真、お金を集めたりとか書類を書いてもらったりとか「スタディツアーのしおり」をつくったりとか旅行会社とのやりとりとか、やってくれる人いないかなあ。いやべつに、オレさまにそんな仕事をさせるなんてケシカラン!というわけではないんですが。


今回いろいろやりとりして、中国の大学、すげえなあと思いました。
こっちが「1週間ぐらいでこれぐらいの人数で、こういう活動がしたい」というと、「ああわかりました」とすぐさま計画書と見積りを作ってくれます。

向こうには「外国からの学生を受け入れる専門部署」があって(それもかなり大きな)、そこがもう完璧に取り仕切ってくれます。

正直な話、行ってしまえば、引率はのんびり部屋で本でも読んでいればいい。とかいって、まあちゃんと付き添いますけど。


もちろん、この手の事業は、「儲けるため」です。実際、授業料収入があまり当てにできなかった中国の大学では、長らく「留学生を取ること」が貴重な「儲ける手段」でした。


さて日本の大学は、といって言い過ぎなら、うちの大学では、にしときますか。この手のこと、ほとんどやられていません。やるつもりもなさそうです。

実は去年の夏、提携先の中国の大学(今回のスタディツアーで行くところとは別)から「このぐらいの学生を連れていきこういう活動がしたい」という逆提案、来たですよ。で、てんやわんや。事務方は「それは先生方が勝手にやってください」と言わんばかりの対応だし(ただ、手伝ってくださる方はもちろんいました)、だもんでオレらが「ここでキャンプして資料館連れて行って」とか全部考えて、全部引率しました。もちろん全部手弁当で。いや〜しんどかった。

以前、「日本の空港は、日本人が海外に行って、帰ってくることしか考えていない」と書きましたが、日本の大学もまさに、「日本人が受験して、入学して、4年で卒業することしか考えていない」んです基本的に。海外からの留学生なんて2の次3の次、へたすりゃ「厄介ごと」と考えているところ・教職員が多いんじゃないですかね。

もちろん積極的に留学生を受け入れている大学もあるんですが、そういうところはむしろ「負のイメージ」で語られることが多い。「日本人学生が集められないから、留学生に頼っている」みたいに。


こういう風潮の、その要因はさまざまでしょうが、けっこうデカいのは、「大学は学問をするところであって、儲けるためにあってはならない」といった根強い価値観でしょうね。教育をビジネスで語ってはいけない、みたいな。

でも下部構造好きのオレとしては、教育にしろ学問にしろ、経済的価値で語ることに、何の抵抗もないんですよね。だってオレがこうやっておまんま食えるのは、日本の大学教育に価値を認めてカネを払ってくれる人が一定程度いるからこそ、です。学問なんてのは(というか世の中のモノ・コトすべては)それ自体に天賦の価値があるわけではなく、価値を認めてくれる人がいるからこそ、価値があるわけでしょ?

だから最近は意識的に、授業や市民講座なんかで、「文学研究/教育って、これこれこういう価値があるんですよ」「だから大事なんですよ」という刷り込みというか宣伝というかセールスを、誰に頼まれたわけでもなく、聴衆の方々に行っています。


……何の話でしたっけ。ああスタディツアー。うちの大学も、ぜひ積極的にこの手の「金儲け」、やってもらいたい、と他人事ではなくやっていきたいものです。で、そのことでうちの大学の「価値」が上がるなら、いいことばかりじゃん。


…ちなみにですが、留学生に関わっている立場から見ると、一部の教員たちの「留学生アレルギー」、凄まじいものがありますね。とくに「日本のこと」をやっている方々…とかあんまり大きな声ではいえませんが(でもブログでは言っちゃいますが)。