出会いの場としての学校

先日はこの本を。

「育つ・学ぶ」の社会史―「自叙伝」から

「育つ・学ぶ」の社会史―「自叙伝」から

論文集ですが、モノによっては大変面白かったです。


ただ逆に、モノによっては、う〜んと首を傾げたくなるものも。たとえばこんなの。

 たとえば、近代的な学校教育制度が成立する以前の、「家」や共同体の存続・維持を重視する近世社会にあっては、子どもはそれぞれが生まれながらにもつ、性別や身分・階層などの属性に応じて、そして多様な地域性のもとで育っていった。子どもの人間形成は、日常生活、つまり「家」や共同体の多様な人間関係を通して行われ、そこには生活世界のありようが深く影響していたと考えられる。
 しかしこのような人間形成のあり方は、近代的な国民形成や人材育成を意図して開始された近代的な学校教育の成立と普及によって、大きく変容していくことになる。(p.9)

近代的学校制度によって多様性が失われたという(まあよくある)議論ですが、学校というのは、こと〈出会い〉に関しては、特にプラス面で重要な役割を果たした、と考えているのです。


構想だけは数年前からあるもののまだ手つかずのネタに「“出会いの場としての学校”を文学から読む」というのがあるのですが、つまり中国近代文学で、とくに男女の出会いの場として、学校がいかに貴重な存在だったかを論じよう、というものです(確か似たようなものをちらっと見たことがあるのですが、本当にちらっと触れただけだったような記憶が)。学校ができるまでは、男女の出会いの場って、本当に限られていたんですよ。なんといっても「結婚前の女性がみだりに家族以外の男の前にフラフラ出ていくことを許されない」社会でしたしね。古典文学でも「未婚の男女の出会い」はだから苦労の痕が見られまして、女性が旅先で「たまたま」出歩いていたらそこでこれまた「たまたま」居合わせた男と出会い……というのが「鶯鶯伝」等古典的なパターンの一つです。やっぱ小説だと、「昔からの許嫁同士が普通に結婚して」というんじゃつまんないですもんね。

そもそも「近代以前」では男女の出会いなど本当に機会がないわけで、だからこそお見合いとか親が決めるとか、ほとんどそれしかなかったわけです。自由恋愛したくてもできないわけだし。


これを打ち砕いたのが近代的学校制度でして、つまり学校というものができたおかげで、男女の出会いが格段に容易になったのです。未婚の男女を強制的に・一同に集める、というのは、もちろん「強制」というのを強調すればそこに権力を読みとるのは造作もないのですが、しかし恋愛に関しては画期的な出来事だったのです。


……となんか今日は偉そうな講義口調ですが、しかしなんだかんだいって今でも、男女の出会いというのは、圧倒的に「学校・職場」が多いわけで、周りを見てもこれ以外のパターンというのは少数派です(まあサンプルに偏りがあるのは明らかですが。オレの周りには合コンに精力を燃やす人はいないので)。ドット・コム・ラヴァーズ―ネットで出会うアメリカの女と男 (中公新書)を読むとアメリカではネットでの出会いというのが全然普通らしいですが。


まあなので、学校というのもそう捨てたもんじゃないとは思います。ちなみにうちも、まあ学校で出会ったといえばいえるか。


「出会いの場としての会社」もまた別に論じてみたいテーマです。民間に勤めている妻の話を聞いても、「同僚の誰と誰がくっついた」とか、そんなんばっか。