想像の共同体って

ここのところ、「中華民国初期の経済状況」についての本をいくつか見ております。

それらを見ると、「中華民国の経済といっても、地域によって大きく異なる」ということがわかります。

同じ国といっても、上海と北京と内陸部では、状況が全く違う。

こういうの、けっこう新鮮です。


というのも、オレがやっている文学では、地域による差異って、実は限りなく無視できるものだからです。

つまり、魯迅の文学は、上海で読もうが北京で買おうが、どこでも一緒です。

そりゃ、内陸部の農民と都会のブルジョアでは、違った読みにはなるでしょう。

でもそれはもう完全に闇の中です。いや、各地の読者の感想を新聞や雑誌からかき集めるような研究であればある程度は出てくるでしょうが(そしてオレ自身はそういう研究が大好きではありますが)、すくなくとも作品に寄り添うなら、その差は、ない。


実は文学にも地域性を考慮した、たとえば「上海文学史」みたいな取り組みは、あります。

でも、今までの「上海文学史」の類は、


1.「上海のことを書いた文学」

2.「上海の人が書いた文学」

3.「上海で書かれた文学」


の3つが混用されている。こういう取り組みに、どのくらい意味があるのか、ちょっと疑問です。


文学の研究者って、「声なき声を掬い上げる」みたいなのに萌える人が多い、ように思います。

つまり公的文書ではない、庶民の声が、小説によって再構成される、みたいなの。

文学研究者には、圧倒的に「反体制」の人が多そうですもんね。まあ、人文系は、多かれ少なかれ、そうでしょうが。

でも、実は文学は、場合によっては地域とかそういう差異を塗りつぶしてしまう方向に作用することもあるのかもな、なんて思ったりしました。


……あ、でもこんなことは、「国民は、新聞と小説が作った」と喝破した、あの人が、はるか昔に言っていることか。