絶妙

ちょっとツン読になってたけど、ようやく読めました。


テレビ的教養 (日本の“現代”)

テレビ的教養 (日本の“現代”)


著者の佐藤さん、研究対象である「メディア」との距離感が絶妙なんですね。メディア・スタディーズの場合、メディアを(特に権力者の側の)プロパガンダだとして批判するか、あるいは「俺たちの時代には力道山がいた」みたいに、メディアに乗せられている(いた)自分を「そんなの織り込み済みだよ」と開き直りつつ好意的に解釈・懐古するか、のたいていどっちかに収まってしまうのですが、佐藤さんはそのどちらでもない。彼の問題意識は、メディアはプロパガンダだと認めた上で、「プロパガンダする方の人間的な論理」を追求する、とでもいうものです。

プロパガンダというと、悪の秘密基地みたいなところで会議が開かれ「愚民どもにはコレを見せておけ。そうすればそのうち洗脳され、俺たちの言う通りに動くようになるだろう。そうすれば世界征服ももうすぐじゃ。うっひゃっひゃ」的悪巧みが決定される、みたいなイメージがあります(そんなプロパガンダ像を持っているのは、オレだけか?)。

しかし佐藤さんの描くプロパガンダは、する側にも、往々にして、「自分の私腹を肥やす」だけではない(ゼロではない場合がほとんどでしょうが)、それなりにきちんとした論理があり、それを分析することで、メディア=プロパガンダのさまざまな可能性を探っていく、というものです、たぶん。


そういう問題意識は、たとえばこの本で一番顕著でしょうか。


言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)


戦時中の言論統制の立て役者を論じたものですが、ここでも「彼の論理」を丹念に追います。かといって、「彼には彼の理屈があった」とか「時代がそうだったんだから仕方がない」的な結論に落とし込むわけではなく、しかし「彼が悪人だったから」「言論統制など、問答無用で悪い」「戦時中に日本がやったことなど、問答無用(ry」で思考停止するでもなく、「いかなる理屈で言論統制が可能になり、そしてそれはなぜ「悪い」とされたのか」など、さまざまな「なぜ」を幾層にも絡み合わせながら、論を展開していっております。


言論統制」に負けず劣らず、その語感からか、プロパガンダというとほとんどマイナスイメージでしか語られないのですが、しかしまあ、世の中のメディア、あるいはメッセージはすべてが何らかの意味ではプロパガンダなわけで、たとえばオレが授業でしゃべる内容もプロパガンダだし、「テレビ放送は権力者によるプロパガンダだ」というメッセージも当然プロパガンダです。だから「プロパガンダは悪い」というのは実はほとんど意味がないと思っていて、だからここで議論されるべきは、メディアや教育で、「どういうプロパガンダを、誰が行うかを、誰が決め、誰がその是非を判定するのか」、に尽きると思うのです。


しかしちょっと笑ってしまったのが、p.169のこの部分。

テレビに呼応する少年週刊誌における怪獣ブームは、宇宙ものスパイものと結びついて、国際秘密警察日本支部とか自衛隊の活動を礼賛する「防衛思想」宣伝に大きな役割を果たし、軍国主義化の底流となっていること。(『日本の教育』1967年)


これはその年の教研集会で議論された内容だそうで、やり玉に挙げられた「軍国主義」番組とは「ウルトラマン」や「スパイ大作戦」だそうです。そっかーこの手の番組を浴びるほど見たオレ(たち)、もうすでに軍国主義に毒されちゃってるんだなー。