コミュニティとか

「市民」「共生」幻想の危うさ:すなふきんの雑感日記

ぼくも首が痛くなるほど頷きました。


そうなると、この本の読み方も、ちょっと変わってくるのかもしれません。


孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生


あまりに厚いのでまだ途中なのですが、この著者のスタンスとしては、労働組合や宗教組織からもっとプライベートなものまで、人々を結びつける「コミュニティ」がこの20年ほどで崩壊しつつある、という状況に対し、悲観的である、というものだと思います。

しかし、それって、本当に悪いことなの?という疑問も、当然起こりえます。


そういった組織に入るには、まさに「コミュニケーションスキルという立派な「才能」」が必要になります。これ、そういうのになんの抵抗もなく入っていけるタイプの方々には想像も付かないほど、大きい壁なのですよ。


僕が今の居住地に引っ越してきて丸4年。その間、いわゆる地元の人たちと交流する機会など、全くありません。ありませんというかできません。

これで、「地元の人たちなんてどーでもいい」と割り切れる人ならなんの悩みもないんでしょうが、僕にも、何らかの懇親団体とか草野球チームとかに入りたい気持ちが、ゼロじゃない、どころか、かなりあるんですよ。そういうのができる人って、うらやましいなあ、かっこいいなあ、と心から思います。でも、一歩が、踏み出せない。あるいは踏み出せても、それを持続させる気力が、ない。そんな時間があるなら、家で本を読んでいた方がマシ、とか思っちゃいます。というか本音では絶対的にこっちです。

までも、大人になってくると、「行きつけの飲み屋」とかそういうのに対する憧れって、増えてくるんですよね。残念ながら、そういうお店もありません。○木屋で飲んでるほうが、気が楽です。


……相変わらずキモイ自分語りになってしまいましたが、僕としては、「福祉」をコミュニティとやらに委ねられるよりは(そしてそれに入れてもらうべく愛想笑い(←僕的には、です)したり好きでもない人と付き合うよりは)、頑張って今のうちに金を貯めて老後は自分ひとりでも生きていけるようにする、その方が、何百倍も気が楽です。


というわけで、アメリカのコミュニティ崩壊についても、「コミュニティに属さなくても生きていける、そういう階層が増えてきた」と解釈することは、可能じゃないでしょうか。

もちろん、あちらの国では、二極化が、日本とは比べものにならないほど進んでいることは言うまでもないのでしょうが。