自分を変える?

昨日はなんとなく憂鬱な気分になりましたが、しかしなんとなくヒントになるとかな思ったのは、ちょっと前にチラリと紹介したこの本。


文化の政治と生活の詩学―中国雲南省徳宏タイ族の日常的実践

文化の政治と生活の詩学―中国雲南省徳宏タイ族の日常的実践


副題通り、雲南省ミャンマー国境に住むタイ族の人たちをフィールド調査した本です。


タイ族とはいっても、上座部仏教を信仰している、という以外には、実はタイとの文化的接点は、それほど深いわけではありません。そもそも、中国の「タイ族」という名称・枠組み自体、ご多分に漏れず、恣意的なものです。遠く距たった、なんら接点のない村々が、同じタイ族という括りにまとめられてしまった、当時は大変困惑した、みたいなお年寄りの昔話が、語られていたりします。


しかし、「タイ族」という、外から与えられた枠組みが、逆に彼らの生活を規定していくことになります。地方政府の主導で、観光用に「水かけ祭り」を始めたり、タイの衣裳や踊りや料理でおもてなしするテーマパークを作ったり、と、タイ族という呼称(これもいろいろ議論があったそうですが)に合わせたさまざまな企画を行っていくことをなかば強いられていく、そうしたメカニズムが、語られています。


……これだけだったら、しかし、実はよくある「観光人類学」本、あるいは「創られたアイデンティティ」本です。この手の事例は、世界中で、別に珍しくないでしょう。「政治への〈抵抗〉」みたいなキーワードを加えれば、その筋にもバッチリ受けそうです。


この本が素晴らしいのは、そうしたいかにも政治的な見方を否定するように、徹底的に、生活者の実践に寄り添った視線(のみ)で、記述していること。

タイ族の人々からすると、「タイ族という呼称が上から降ってきて、それに合わせて自らの生活も変わっていった」ということ自体、あくまでも「日常的実践」の一環なのです。そこにはアイデンティティという概念など入り込む余地もなければ、抵抗などというご大層な論理など生まれる余地もない。「一見政治に従属しているようで、実はうまく利用している」的なお話でもない。彼らはたんに、その時その時の状況に応じて、食いっぱぐれないように、そして先祖を祭りつつ、生活しているだけ。そうした実践にああだこうだと理屈を当てはめ、民族がどうのアイデンティティがこうのと「上から目線」で論じて同情したり憤ったりすることのバカバカしさをこそ、この本はメタメッセージとして発しているのです(とオレは読みました)。僕自身、アイデンティティ研究とかやっているもので、軽い衝撃でしたよ。


……というわけでオチはもう想像が付くと思いますが、愛国主義がどうとか反日がこうとか、あんまし、関係ないのかもなあ、とね。もちろんマスとしてみれば実体としてそれはあるんでしょうが、ただ個々(の中国人)に寄り添った場合、彼らにとって、それははたして人生のうちでどれほどの価値を持つのか。動員だからとかカネは大使館から出たとか遠足気分とか、そういうのを強調したいわけではなく、しかし彼らにとって、ああいう「実践」は、食って寝て遊ぶのと全く同等の、行為の一つに過ぎないんじゃないか。


一つに過ぎないからどうでもいいかどうかはまた別かもしれません。「一人一人の中国人は良い人」的な、あんまり意味のない言い方なのかもしれません。ただ少なくとも、旗を振り気勢を上げる中国人は悪魔ではありません。一人の人間です。そうした「たんなる/ひとりの」人間の日常的実践として、「生活の詩学」として、ああいう出来事を、見れないもんでしょうか。


「自分(の見方)を変えれば世界も変わる」的な物言いなのかもしれませんが……ま、オレ、自分が変わることには、あんまし抵抗がないもんで。