次なる課題

そういえば週末はお出かけしていたので、長野での例の騒ぎ、残念ながらリアルタイムで追うことはできませんでした。


さて事ここに至ると、次の「我々」の課題としては、今回の動員に見られるような中国のナショナリズムを、どう評価していくか、ということになると思います。

とくに、3年前の「反日デモ」で「彼ら」に諸手を挙げて賛辞を贈った(雑誌で特集まで組んじゃった)先生方は、今回、どういう反応をなさっているんでしょう。意地悪く聞いてみたい衝動に駆られます。

まあお答えとしては、「前回と今回は違う。前回は「反日」という大義があったが、今回はない」というものでしょう。

それはそれでいいのですが、ただ残念ながら、そういう理屈で「彼ら」を納得させるのは、無理です。

なぜなら、そもそもそうやって、自分たちのやることに、「これは良し、これはダメ」と、「西洋目線」「上から目線」でものを言われること自体に、「彼ら」の反発の要因があるからです。

「彼ら」的には、前回も今回も、変わりません。やられたからやり返している。それだけ。


また、「中国は近代化の途中であり、だからナショナリズムが噴出するのはある程度は仕方がない。いずれ「解消」される」的な淡い希望(中国の知識人もこういう言い方をされる方がいますが)、あるいは「情報統制されているから、歪んだナショナリズムが発動される」的「共産党悪玉説」も、

http://beijing.exblog.jp/8430156/

こちらの記事を読むと、どうやらダメっぽいです。考えてみれば、今回「動員」されたのも、多くは西側の自由な報道に接しているはずの留学生たちです。むしろその彼らが、積極的にナショナリズムの担い手となっている。

(まあ日本でも、「歴史修正主義者」といわれるような方々、あるいは保守に、欧米留学組が少なくない、とはよくいわれることですが)


となると、「我々」には、いかなる道が残されているんでしょう。日本や欧米のナショナリズムは批判しつつ、中国のそれは(生)暖かい目で見守る、そういうダブスタを葛藤なく行えるような人は羨ましいなあとは思いますが、少なくとも僕には無理っぽいです。かといって、「中国異質論」のようなエッセンシャリズムも、それに与する気持ちがゼロではないですが、やはり危険な道です。


正直、解決の糸口すらつかめません。もっと頭のいい人に考えてもらうしかなさそうです。