再びこの問題について

チベットの事件に関する、僕的No.1記事です。

http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/517127/


中国の報道官が言う「どの国だって同じことをする」に、なるほどそうだよなと頷くような呑気な人は少なくとも日本にはいないでしょうが、しかし「アメリカだってイラクで同じようなことやってるじゃん」とか「日本だって第二次大戦に中国で」(←さすがにコレはいないか)とか、そうやって相対化していくような言論に対しては、「う〜んまあたしかに」と、なんとなくでも思わせるものは、あります。
そもそも中国の知識人には、「中国には問題があると西側知識人は言うけれど、じゃあ西側には汚職も貧富の差もないというのか。どっちにだって問題はある」的な、「どっちもどっち」論法を使う方がけっこうおられます(代表的なのは、朱建栄氏とか)。


しかしやはり決定的に違うのは、(例えばアメリカには)「米国内で米国市民が批判しデモ行進する自由があり、それを米国人が写真にとり配信して、外国メディアにも報道させる自由がある」ことでしょう。自国の汚点に正面から向き合い、それを外国に発信することも厭わない、そうした勢力の言論の自由が守られる、その一点で、やはり先進国(ととりあえず括ります)と、中国のあいだには、超えられない壁があります。日本だって、なんだかんだいっても、今の政権や政党や首相をボロクソに言ったり書いたりしても逮捕されたり削除されたりすることはありませんし。

ちなみにチャイナ・デーリーに限らず、中国のマスコミは、アメリカや日本等での「政府に抗議するデモ」を報道することが多く、それによって「アメリカや日本にだって問題はいっぱいある」というメッセージを流し続けているのでしょうが、しかしこれって、「アメリカや日本には政府に抗議する自由がある」というメッセージも同時に流してしまうという意味で、両刃の剣なんでは、といつも思っています。


さて、「中国ってやっぱり遅れてるんだ」「やっぱり一緒にはやっていけない」とかそんなんで思考停止してはそれこそなんの解決にもなりません。もちろん、じゃあどうすればいいのか、はそう簡単に答えの出る問題ではないでしょうが、しかし少なくとも、彼らの「相対化戦術」には乗らないこと、が大事なんだろうとは思います。「問題の有る無し」だけを問題にするのではなく(それがどうでもいいというわけではもちろんないとしても)、「問題がある」ということを自由に議論できるような状況を中国において作り出していくこと、この事件についていえば、事実の「真相」を知る努力をするのと同時に、「この問題の淵源はなんなのか」「本当にこのやり方でよかったのか」「他の方法はなかったのか」を、中国国内で議論できる状況をなんとか作り出していくこと。あるいはその方法を真剣に考えていくこと。


それを検討すること無しに、たんに「中国は酷い」「中国は遅れている」と批判したところで、問題はなんにも解決しないでしょう。