対岸の火事

昔からなんとなく思っていることですが、「外国のこと(政治にしろ経済にしろ歴史にしろ文学にしろ)」を研究するって、「対岸の火事」的な感じがするよなあ、と。究極的には他人事。「アメリカの政治システムがどうちゃらこうちゃら」いうのって、「三丁目の山田さん、あそこ家庭が大変みたいよ。お母さんはボケちゃって息子さんはグレちゃってどうちゃらこうちゃら」と噂話するのと、根本的なところでは変わらないんじゃないか(仮に論文の最後に「これは日本にも通じる問題である」みたいな言い訳を入れたとしても)。


別にいいんですよ変わらなくたって。ただ僕も「外国のこと」を研究する一人として、「日本のこと」を研究する人たちに対し、ほんのちょっと、コンプレックスはあるのかもしれません。


そんなことを再認識したのは、この本を読んで。


「これからの文学教育」のゆくえ

「これからの文学教育」のゆくえ


中身はあんましよく分かんないし、彼らがなんでそんなに「熱く」なっているのかどうにも不明なのですが、しかし一方で彼らのその「熱さ」に、畏敬の念を覚えるのもまた事実です。要は「日本文学研究」と「(とくに小中学校での)文学教育」との融合を目指しているわけですが、この視点、「日本研究」ならではでしょう。「外国のこと」研究/教育って、最後の最後で、「異文化理解」という逃げがある。でも「日本のこと」にはない。だからこそ、彼らは、本当に必死に、自分たちの存在意義を追求する。その熱さに、胸がきゅーんとなるのです。


「必死だなwww」と茶化す気持ちが少しもない、とはいいきれないのですが、でもかなり襟を正させられました。とくに冒頭の座談会。ここまで熱くなれる彼らがウラヤマシス。