すべてを飲み込め

今、「恋愛の中国文学史」みたいなテーマで授業をしているので、この本を参考にしてます。


恋の中国文明史 (ちくまライブラリー)

恋の中国文明史 (ちくまライブラリー)

唐代になると状況は一変した。[中略]異国の女性との交際という外的条件によって「父母の命、媒酌の言」的な結婚からの逸脱が保証され、その前提のもとで、洗練された情緒はいっそう熟成し、ついに未婚男女のあいだの恋の表現を飛躍させるにいたったのである。もし異国、あるいは異民族とのつきあいがなかったら、未婚男女のあいだの恋の発見はさらに遅れたにちがいない。(p.130)


この本では、「異民族」との交わりによって、中国の恋愛文化は大きく変わった、というのが、繰り返し強調されています。


こういう論法、実は中国の人には、けっこう多いのです。有名なところでは、


多民族国家 中国 (岩波新書)

多民族国家 中国 (岩波新書)


なんかが典型。書名もさることながら、目次にも、「「中華民族」の創始者は異民族だった」、「漢民族国家という幻想」などという語句が並んでいます。


こういう主張、日本の「反・国家主義」者にとっては、我が意を得たりとばかりに同意しそうなものです。相変わらず飽きもせず・懲りもせずに「日本の文化は豊かな自然と暖かい人間性がはぐくみ……」みたいな主張を繰り返す「国家主義者」には、張競さんや王柯さんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものです。


でも……なんかこう、引っかかるものがあるんですよね……


僕は張競さんや王柯さんの政治的スタンスは(なんとなくは分かりますが)よく分かりません。が、「昔から異民族を併呑しつつ、大きくなってきた」こと、古代からの雑種性を錦の御旗にして今現在のナショナリズム(というか少数民族政策)を中和・無毒化しようとするかのような主張を見ていると、ナショナリズムグローバリズムが、単純な二項対立には落とし込めない複雑な様相を呈しているのだということが、よくわかるのでした。