続・反エリート

昨日はキモい自分語りをしてしまいましたが、繰り返しますが、もちろんこれは、たんなる逆恨みです。左派に悪いところはまったくありません。


ただコメント欄にも書いたように、あるいは、id:kmizusawaさんも書いておられるように、左派のエリート意識(とひとまず言っておきます)に、反感を抱く人が多いのは、疑いを得ないでしょう。


すっかり昔の話になりましたが、「産む機械発言」(への反応)が典型的。あの発言への批判は幅広い方面から出ましたが、とくに左派(政党)のヒステリックな反応は、あの発言を「なんだかなー」とは思う僕ですら、ちょっと引いてしまうものでした。

行動で批判されるのはいいんですよ。DV野郎とか、女性社員をロコツに差別する会社とか、そんなのが駆逐されるのは、喜ばしいことです。しかし、ある言葉尻(しかもおそらく冗談の)を捉えられて、「そらみろ、お前は差別主義者だ」とかいわれると……なんか、他人事じゃないよなあ、と思っちゃう。あの発言を、「別にいいんじゃない?」とかいうと、「そらみろ、お前もやっぱり女性差別者だ」とか認定されちゃうんじゃないか、と思ってしまう。「あれは大臣という立場にあるものが……」という理屈も、「でも、大臣じゃなくても、ああいう発言はマズイ、ってことだろ?」と警戒してしまう。


差別発言であるかどうかを監視・評価する「言説エリート」が支配する世の中……左派には、なんかこう、(国家権力のとは)また違った意味での「監視社会」の臭いを感じてしまうのですよ。弱者の側に立つという、その姿勢は100%共感できる、はずなのに、「誰が守るべき弱者で誰が打倒すべき強者か」を勝手に決められ、自分が勝手に強者認定されてしまうんじゃないか……という不安。「市民派」でありながら(あるいは「市民派」であるがゆえに)、誰が「市民」で誰が「非・市民/反・市民」かを、思想信条で勝手に色分けされているような不満。


これらが妄想であればいいのですが、しかし、なんというか、いやほんとうにわかりません、ええ。