「書かれたもの」の国

ちょっと前の話になりますが、『江沢民文集』(『選集』だっけ?)とかいうのが出て、そこに「永遠に日本を責め立てろ」みたいなことが書かれているそうで(僕はまだ未見)、それ自体は、やっぱりなんかいい気分はしませんでした。


それはともかく、今時、しかもまだ生きている政治家(というよりあちらではやっぱり「指導者」なんでしょうか)の『文集』が出てしまう、というのが、やっぱり中国らしいですねえ。


そのほかの国で、こういう『文集』を出せる国・政治家が、はたしてどのくらいある・いるでしょうか。


クリントン文集』とか、エッチな日記とかが所収されていそうで、なんかワクワクしますね。


『ブッシュ文集』とか『小泉文集』になると……そもそもこの人たちは、文章を書く、ということがあるんでしょうか。『発言集』『語録』ならともかく。


そう、『文集』が出版されるって、ものすごく怖いことだと思うのですよ。自分の書いたものが永遠にこの世の中に残り、しかもそれが批判にさらされ続ける。今回の江沢民の「永遠に日本を…」みたいに。


『文集』が残るのは、「良い政治家だから」、とは限らない。もちろん名目は「偉大な政治家だから」、なんでしょうが、しかしそれは、実は「晒し者の刑」なんじゃないか、とも思うのです。

世の中には、いくら偉大な政治家であろうが、完璧な人間などいません。その人が書いたものを読んで、「こいつバカだよな」と笑い者にするなど、いくらでも可能です。

なにも書かなきゃ(あるいは書いても残らなきゃ)、批判されることもなく、そのうち忘れ去られていくだけですが、書いたものが残る、ということは、自分の「恥」が、永遠に曝され続ける、ということです。

僕は昔から、論語やら孟子やらを読んで、「良いこと言ってる」とか「現代にも通じる」とかいって感心する人の気が知れませんでした。

それは、「当時の人が何を考えていたか」を知る資料としては、まあ使い道はあるのでしょうが、書いている内容のほとんどは、真に受けるのがバカバカしいものです。

二千年後の、知識も何もない人間から「こいつ、バカなこと言ってるよ」と言われる屈辱。『文集』って、そういうキツいもの、ものじゃないんでしょうか。


江沢民文集』も、これから永遠に、一部の信者・信徒以外から「こいつバカだよな」といわれる対象として存在し続けるのでしょう。


それは大変怖いことですが、それでも、それはやはり、「偉大」で「名誉」なことなのかもしれません。アホ発言しか記憶に残らないどっかの首相より、ずっと。



……そういえば、どっかの「次期首相」が、「美しい日本」だかなんだかいう本を出したそうですね。

将来、『Abe文集』なるものが出版される可能性は、あるんでしょうか。「無い」に1000マリネラ