逆転ホームラン。

たまには違う話を。


昨日の智弁和歌山×帝京の凄まじい乱打戦のしかも最終回を車のラジオで聞いていて(乱打線もあそこまで行くと清々しさを感じます)、興奮さめやらぬまま、次の番組を聞いておりました。お題は「英語を話したい」(正式なのはド忘れ)。ゲストはピーター・フランクル氏です。


フランクル氏曰く、英語なんて道具に過ぎない。日本人がいくら英語を上手にしゃべったって、所詮は「二流アメリカ人」にしかなれない。そんなことするくらいなら「一流日本人」になるよう努力するべきである。中身ができれば、その伝達手段は後からいくらでも付いてくる。(大意)


はっきりいって、こういう理屈は、ものすごく耳障りがいい。「いや、まったくその通り!!」と膝を打ちたくなります。75%同意。


でも、100%同意とはいかないんですよね。


というのも、「一流の日本人」になるのも、容易ではないからです。
一流というと、まあその分野のプロフェッショナル、というところでしょうが、それには相当の才能を、結局は必要としてしまいます。
ヘタすると、「二流のアメリカ人」になるよりも、難しいかもしれない。


実は語学というのは、人口のほとんどを占める二流三流の日本人にも、一発逆転のホームラン、が打てるチャンスなのです(あくまでもチャンス、というだけですが)。

僕は中国留学中、ある日本企業(その業界一位)でバイトをしていましたが、そこには、「“中国語がまあまあ話せる”というだけでパソコンもなにもできない」という評判の日本人社員がいました。

日本人や中国人の社員は、「彼女は、中国語ができるというだけで、いい給料もらっている」とよく陰口を言っていたものです。


また日本でも、「帰国子女で英語がペラペラというだけで、中身はカラッポ」の社員の話は枚挙に暇がありません。


しかし、逆にいうと、中身はカラッポでも、語学ができれば、とりあえず打席には立てます。


極端な話、一流の日本人になるべく、なんだろう、敬語を勉強したり日本の歴史を勉強したり、ですかね、そんなのに時間をかけるより、外国語をやるほうが、よっぽど「打席に立つチャンス」はめぐってくるでしょう(だからといって、これらの勉強がムダというわけではもちろんありません。また、「良い企業に勤める」ことが一流日本人の条件というわけでもありません。あくまでも一例、です)。


語学というのは、二流三流の日本人が、一流日本人と伍していくことのできる、つまり、逆転ホームランを打つことのできる、チャンスなのです。


なので僕は、決して一流ではないうちの大学の学生には、「自分の武器として、語学はいいぞ役に立つぞ」と、積極的に留学を勧めております。

もちろん、語学も才能は必要です。努力に比例して報われる、とは言い切れません。しかしまあ、試す価値はあるんじゃないか、と思うわけです。


ついでにいうと、「中身が大事」云々は、実際に中身がある(と自認している)大学の先生とか自由人とか、そんな人たちが主張していることが多いので、一般の人たちはあまり真に受けない方がいい、とおもいますよ。