失われたもの

DVDレコーダーの録画を整理していたら、以前録画していた『時をかける少女』(’83)が出てきました。

それこそ二十何年ぶりかで見て、感涙。

このころって、いろんな意味で、(少なくとも僕にとっては)いちばんいい時代だったのかもなあ、と、しばし蕭然としておりました。


もちろん、人間というのは、100人のうち95人は「昔はよかった」と感じているものなんでしょう。100人のうち97人ぐらいは「最近の若い者は……」と感じているのと同じで。

それに83年といえば、バブル前夜の右肩あがりの時代。それが、画面を見ていて「いい時代」感が漂ってくる理由なのかもしれません。


しかし、こういう穿った見方だけじゃない、何かがあるような気がするんですよね。今は失われてしまった、なにかが。

あるいは、今はある何かがなかった、とも言えるかも。


一つ感じたのは、社会全体における(特にこれは学園モノなので、学校に対する)「信頼感」が、今よりも断然あったんだろうなあ、ということ。教師はセクハラなんかしない、高校生は性行為なんかしない、親は子を、子は親を、無条件で大切に思っている、みたいな。


もちろん、こんなのバカげているといえばバカげているんです。教師を無条件で信頼してたらそれこそいつセクハラされるか分からないし、高校生がセックスしたって(相手によっては犯罪になるとはいえ)べつにかまわんだろうし、親だからといって子供に暴力ふるわないなんてことはありません。当時だって多分そうです。だから、チェック機能が働いてきたという点で、「いい時代」になってきたといおうと思えば、いえるんです。


しかしそれでも、「昔より今の方がいい時代だ」という人が、おそらくは圧倒的に少数派であるのは、なんででしょう。今では学校にはセクハラ・アカハラ委員会もできたし、ストーカー防止の法案もできたし、子供が親に虐待を受けていたらすぐ通報するようにもなってきたし、普通にいえば、「いい時代になった」感がもっとあっても良さそうなのに。


一つ言えるのは、この手の規制は、それが作られ、可視化されることで、社会における「信頼感」を、確実に失わせるであろう、ということ。「中国人を見たら(スリとかに)注意」的な貼り紙を東京の商店街で見たことがありますが、それはいうまでもなく、犯罪者ではない圧倒的多数の中国人に対する「信頼感」を失わせます。それと同様の効果が、おこってきているのではないか、と。


もちろん、「だからそんな規制はすべて取っ払え」というのは無理です。時計の針は戻せません。いい時代と感じようが悪い時代と感じようが、我々はそういう時代を生きていくしかありません。江戸時代の武士が、「昔は、町民を斬り捨ててもお咎め無しだった、いい時代だった」とかいうのと一緒で、ナンセンスです。それは分かっています。


だからこそ、『何丁目の夕日』みたいないかにも「そういう効果を与えるのを狙っている」ものではなく、まさに「その当時」を記録した映画で、おじさんが涙を流すぐらいは、大目に見てほしいものです。って誰も非難はしないでしょうが。ってかラストの原田知世可愛いすぎ。


【追記】
時をかける少女』がキーワードになっていたのでへーと思ってみてみたら、なんとこの夏リメイクされるんですね。なんともはや。まあたぶん見ないでしょう。古いといわれようと、あの映画は原田知世以外には考えられません。ていうか仲里依紗って誰?