学位2

昨日の続き。

という具合に、中国では学位(これは「博士」に限らず、「修士」「学士」でも。また、人文系であっても。)が、一般社会において、いまだそれなりに有効である、ということはいえます。これはアメリカでも同様のようです。

しかし日本では、周知のように、「修士」以上には、特に文系では、ほとんど意味がありません。むしろ「学士」のほうが、まあないよりは、という感じです*1修士を持っていても、研究者や教育職など、ごく一部を除いては、ほとんどゼロ査定です。むしろ「ムダに歳を取っている」と、敬遠される要因にもなります。


どっちがいいのかは、ちょっと分かりません。もちろん、大学内にいる人間にとっては、人々が米中並みに学位取得に狂奔してくれた方がいいに決まっていますが、しかしそれは、新たな競争社会・格差社会を生みます。学位というものが、「それを持っていない者」との差異の象徴である以上、「蜘蛛の糸」的な状況をもたらす元になるのも、確かでしょう。


そして、今回の中国の事件では、学生側にとっても、大学側にとっても、「何を学んだか」について、ほとんどなんの意識も持たれていない(と思われる)のが、やや寂しいところです。これは究極の理想論かもしれませんが、本来的には、教育というのは、「何を学んだか」が最も重要な要素になるべきで、「どの大学で」とか「学位が」とかいうのは、あくまでそこから派生したオマケであるはずのものです、たぶん。だから、「学位は取れなかったけど、ここでしっかりとした知識や技術を学べた、オラ満足だ」という学生がいる、というのが、理想的な姿だと思うのですが……


いや、それはあまりにもな理想論ですね、はい。

*1:そしてこれもいうまでもなく、日本では、「どの大学を出たか」が、決定的に重要なファクターになっているわけです。