流動性と広告

昨日、香川県善通寺にある高校で開かれた、大学説明会に行ってきました。これは、高校にいろんな大学・短大・専門学校が集まり、体育館や教室にブースを作って、生徒が希望する学校のところに行って説明を聞く、というもので、最近よくやられるようになりました(僕らが高校の時には考えられなかったことですが)。

見たとこ、他の学校はほとんど事務職員(たぶん広報課とか)が来ており、教員が来ていたところがごくわずかだったように思います。でも、僕は、年に2,3回降ってくるこのお仕事が、嫌いじゃない、どころか大好きなんですね。高校生にとって、大学というところは、「よく分からないけど楽しそう」なものなんですね、たぶん。なんかこう、考えただけでワクワクするような(自分が高校生の時もそうでしたっけ)。そういう生徒たちに、「じゃあキミたちに、大学というものを、ちょっとだけ教えてやろう」みたいに講釈するのって、ものすごく楽しい。生徒たちも、なかなかに真剣に聞き入っている。昨日も、「大学生になったら、教員と一緒に朝まで飲んだりカラオケに行ったりできますよ。ただし20歳になってからですが」とかいう雑談に食いついてきて、ああ、来た甲斐があったな、と嬉しくなったものでした。

なので、「説明会に行ってくれる人募集」が来たら、授業に重ならない限りは真っ先に立候補することにしています。


で、ここからはまたちょっと別のお話。行きの車の中でふと思ったのですが、こういう「広報」系のお仕事って、いわゆる「仕事の流動性」みたいなのと、かな〜り相性が悪いんじゃないでしょうか。


例えば、大学教員というのは、結構流動性が高いお仕事です。地方大学勤務の場合、都市の大学、あるいは母校からお呼びがかかったら、断る人はまずいないでしょう。お呼びがかからないまでも、若手が地方でそこそこ勤めながら公募情報に目を光らせ、募集があったらすかさず申し込む、ということは、全然珍しくない、どころかごく普通の光景です。

僕が今年「A大学をよろしくお願いします」と呼び込みして、翌年は一転、「B大学をよろしくお願いします」って広報するのって、なんかこう、あまりいいこととは思えないんですがね。「あれ、お前、去年あんなに「A大学は素晴らしい」っていってたじゃないか、だから生徒をA大学に送り込んだのに、今度はB大学かよ!去年の話はウソだったのかよ!」みたいなことになりかねない、ように思います。

これ以外にも、例えば教員の任期制。3年なり5年なりと雇用期間が区切られたとして、一体誰が「その大学のために」、働こうとするでしょうか。いや、授業で手を抜くとか、そういうことじゃありません。研究にしろ授業にしろ、「どの大学で」というのは、基本的には関係ありません。しかし、もし「うちの大学は他とは違うんだ」という「オンリーワン性」を出したいのであれば、むしろ自分たちの教職員を(良くも悪くも)囲い込み、独自の色を付けなければ、他の大学となんにも差などつきません。


いや、差はつくか。例えば「授業料値下げ」とか「全学生にパソコンあげる」とか「全員タダで留学」とか、そういうので差をつける、という案はありますね。その場合は、逆に教える人は徹底的に無名性、「誰でもいい」というふうになるんでしょうね。ま、それはそれで、一つの路か。


でも、ただでさえ「オンリーワン性」を売りにするのが難しい大学業界で、広報って、どんだけ意味があるのかな、とちょっと思ったり。だから僕の場合、高校訪問も、実は「大学のため」では全くなく、たんに自分の楽しみのためです。


【付記】
その高校でトイレに行ったら、ツッパリたちが溜まっていて、「うわっやべー」と思いつつ、コソコソ用を足しました。なんか懐かしい感覚。僕が中学の時は、トイレに行くのも命がけでした。そこそこ荒れた学校だったので。