「ニートって言うな!」?

 最近何か書けば叩かれるようになってしまった本田ブログ。そのせいか(もちろん、ご本人がお忙しいということもあるのでしょうが)、ブログの更新頻度もめっきり落ちてきました。

 
 で、「ニートって言うな!」派には、大きく分けて3つの主張があると思います。(実はもっとあるのでしょうが、ここでは便宜上)

1.「ニートは本人のせいではない、企業が雇用促進をしないから、仕方なく働いていない若者が多いのだ」

2.「ニートだっていいじゃないか、何が悪い」(←「江戸時代からニートはいた」みたいな意見もここに入るでしょう)

3.「ニートなどいない、若者バッシングのため勝手に付けられた幻影に過ぎない」


 この3つ、それぞれ、『「ニート」って言うな!』における本田・内藤・後藤の三者の主張を、(特に後藤氏のはかなり強引かもしれませんが*1)デフォルメしてみたものです。


 こうやってみてみると、この中で、真に「ニートって言うな!」という主張が当たるのは、3だけなんじゃないでしょうか。1は「ニートは本人が悪いのではない」だし、2は「ニートで何が悪い」だし。


 ただ、それでも三者に共通しているのは、「ニートという言葉には色が付いている」という点です。たんなる「若年無職者」なのではなく、「働けない」のではなく「働かず」、親のスネを囓りながら、ブラブラしている、というイメージ。なので「(この言葉に色が付いてしまった以上はもう)ニートって言うな!」という意味では、まあズレているわけではない、とも言えます。


 ただ、「色」無しの、無色透明な用語って、はたして可能なのかしら。以前経済学者のブログで、「我々は用語・概念の統一をしやすくするために、数式を使うのだ」とあるのを読んでなるほどと思いました。例えば「A国よりB国の方が失業率が低い、だからA国よりB国の方が暮らしやすい、良い国だ」などという場合。そもそも「失業率」自体、国によって定義が一様ではなく、単純比較はできない(らしい)のに、「良い国」という概念をきちんと定義するのはほとんど不可能です。
 しかしそれでも、「良い国」という問題をそれなりに議論していかなくてはならない、それが、文系学問の宿命なのでは、と思うわけです。


 で、「ニートには色が付いているから、ニートと呼ぶのをやめよう」という主張。じゃあ「ニート」という用語に変えて「へまか」という名称を新しく作ることにしよう。それで解決するでしょうか。もしかしたら不適切かつ不謹慎な喩えかもしれませんが、癌患者に、「癌」という用語を使うことをやめることで、癌が治るか。どうも、こういうことをいっているように思われるのです。


 ある概念に色が付いているからといって、用語を変えて、リセットしよう、というのは、はたしてどこまで有効なのか。もちろん、「ニート」を恣意的に、都合よく使う一派に対しては普段に批判していくことが大事ですが(ただそれでも、例えば玄田氏の主張ややっていることが、100%間違っているとは思えないのですが)、ただそれでも、「ニート」という用語・概念を否定することで、何がどのくらい変わるのか。やや疑問です。


 ちなみに僕は、2の内藤氏の主張に、ほぼ賛成です。ニートだっていいじゃんべつに。だからこそ、「ニートっていうな!」という主張には、やや首をかしげるのでした*2

*1:なお、同書中において、後藤氏は新聞や週刊誌のニート言説の分析をしていますが、「じゃあどうすればいいのか」にはほとんど言及が無く、最後の最後で「「ニート」問題の視座を本来あるべき就業の問題として捉え直すことこそが求められていると考える」と放り出すような形でしか語っていません。まるで、「就業の問題は本田さんに一任」しているように。だからダメというわけではないにしろ、やはり後藤氏の論考は、誰かが(たしか)ブログで言っていたように、(本人が「現役大学生」、しかも「理系」の大学生、ということで一部で過大評価された)「よくできた卒論」という程度のものだとは思います。だから無価値というわけではありませんが。

*2:なお、今回のエントリはあくまで、「ニートって言うな!」というタイトルに関する違和感です。本書の、例えば本田さんの主張について、僕は95%賛成です。まあ、タイトルのみにこんなに噛みつくなんて過剰反応なのかもしれませんが。