共謀罪とフェミ

 共謀罪ばやり。


 法律には無知以上の僕でも、「相談しただけ」とか「考えただけ」で御用、というのが空恐ろしい世界だというのは分かります。恐ろしいと同時に、そんなに人間を罪人にしたいのか、そんなに人を性悪説でしか見れないのか、と思うと、なんだか哀しい気分にもなってきます。


 それはそれとして、この「哀しい気分」にぶち当たることが、この共謀罪以外でもたま〜にあります。それは、例えば、一部のフェミニズム関連の文章を読んだ時。


 (以下、予防線を張っておくと、僕はすべてのフェミにすべからく反対でもないですし、またフェミの運動が決してひとかたまりのものでもない、のは確認しておきます。)

 フェミニズムは、基本的に「現在の社会には、男女関係において、深刻な問題がある」というのが前提となっている場合が多い。そして言うまでもなく、それは「男の女に対する抑圧」としてです。

 この前提は、正しい、とは思うんです。この社会が、システム的に、いろんな局面で、女が男に抑圧されている社会であるのは間違いない。

 それは分かるんですが……


 以前、あるフェミの論客が、「男が罪を犯すのではない、男であることが罪なのだ」という題の論考を書いたことがありました。

 例の「哀しい気分」は、まさにここから来ています。つまり、個人の心理としては全然(男女差別などという)そんな気ないのに、「お前、男だろう、だから、どうせ差別する側だろう」と決めつけられるイヤ〜な感覚。「“男”性悪説」。

 いや、仮に、心の中で「女を差別してやる」「女はバカだ」と思っていたとしても、実際にそれを行動に移さない限りは、別にいいんじゃない?という原則が、どうも通じないような、そういう世界に対する違和感、とでもいいましょうか。なんかこう、予防拘禁的というか、そんな臭いがしてしまうのです。


 文学業界の、フェミ論文の一つの典型が、「誰々の作品には女性の視点が欠けている、あるいは女性を差別的に書いている、だから誰々は女性差別者だ」というものです(ちなみに、「女性」の部分を「被植民者」に変えるとポスコロ論文になります)。

 こういう論文を読んでいても、いつも複雑な気分になります。そもそも、「女性差別作品を書く」という行為が「差別をした」ことになるかどうかは微妙ですが、どうもこれが、「言葉狩り」ならぬ「思想狩り」みたいに思える。


 今日の高知新聞では、(誰が書いたかちょっとど忘れ。確かノンフィクション作家。今学校なので。多分これも共同通信配信)共謀罪に関する論考で、「殺そうと思う」とか「破壊しようと思う」とか、そういう「思うこと」に対する自由、という原則が崩れ去ろうとしている、と書いてありました。「思うことの自由」という点は、僕も120%同意です。

 しかしこれには、「差別しようと思う自由」も、当然含まれます。もちろん(誰にも見つからず)思うのはいい、として、ではそれを「(文学作品やらなにやらで)表現」するのはどうなんでしょう。「オレには、女性を差別する気持ちは毛頭無い」人が書いた文章が、一部の人たちから「差別認定」された場合、を想像すると、どうも、「反国家的な行為をするつもりなどまるでない」人たちが「反国家集団」認定された時、に通じるのでは、と考えてしまうのです。


 もちろん、共謀罪フェミニズムを並べるのは乱暴かもしれません。フェミに批判されても、まあ特に痛くも痒くもないですが、共謀罪認定されたら塀の中です。レベルがまるで違う。でも、なんかデジャブ感があったので、ちょっと書いてみました。