つづき。

 まあしかし自分でも、自分がなぜここまで「学校差別」にこだわるのか、ある程度は分かっています。それは「自分のおまんまの食い上げ」になるからです。


 もし「学校名でスクリーニング」が正当化されてしまうとすれば、どの大学に入るかで勝負がついてしまう、つまり、大学入学が、ゴールになってしまいます。

 となると、「大学名では企業の気を引けない」大学に入学しちゃったら、その後の大学生活は良くて「消化試合」、悪くすると「敗戦処理」です。「どーせなに頑張ったって、ムダさ」というわけで。


「そーだよ大学生活なんて、今までだって所詮は「消化試合」だったじゃない」とか「そもそも大学で、そんなに価値のある授業が行われてました?」とか言われれば、引き下がるしかないのかも、しれません。


 しかし、「大学名では企業の気を引けない」大学で教えている身としては、それはあんまりひどすぎるんじゃないか、と思うわけです。コメントで頂いたように、「大学での頑張り」とか、そういうものを評価するものって、ないものか、と。


 いや、もちろん、小学校じゃないんだから、「頑張ったで賞」とか、そんなんで旨い目が見れる、なんてことはないのは分かっているのですが……


 あるいは、「今は大学の数が多すぎる。一定レベル以下の大学など要らない。若者はさっさと働かせるべき」というありがちな意見も、「働き口などどこにあるんだ?」という突っ込みを除けば、まったく反対、というわけでもないんですが……


 どうすればいいんでしょう、ねえ。