深夜の戯れ言。

 ツンデレの続きですが、いろいろ見ると、韓国ドラマはほとんどがツンデレですね。

 で、あれって、女性観がある一つのステージにある場合にのみ、有効な要素なんじゃないでしょうかね。

 つまり、「女性はおしとやかであるべき。自分から男を探しに行ったりするべきではない」という価値観があるからこそ、最初のツンツンとその後のデレデレのギャップが楽しめるわけです。ところが「sex and the city」的な、女がイイ男を漁って何が悪いの?みたいなステージになっちゃうと、ツンツンなんてのは無効になっちゃいます。

 で、見ていると、中国ドラマには意外ににツンデレが少ないんですね。例えば「sex and the city」のパクリ(でしょう、たぶん)「好想好想談恋愛」というドラマシリーズがあるんですが、これなんかは本家同様、ツンデレステージをたやすく乗り越えちゃっています。床屋談義レベルの解釈によれば、「中国は、女性が強い」という結果、になるのかも。


 福田恆存でしたっけ、「一匹と九十九匹」についていったのは。つまり、今ここに百匹の羊がいるとして、政治が九十九匹の羊を救うためのものであるとすれば、文学は政治によっては救い得ない一匹を救うためにこそあるのだ、というわけです。

 これについては、なるほどと思うところがないわけではないのですが、しかし文学研究者、とくにある年齢以上の文学研究者は、その「一匹」を容易に英雄視してしまい、「九十九匹」を小馬鹿にする傾向にあるんじゃないか、と思っています。

 例えば僕のやっている分野だと、魯迅という人がいます。彼は偉い。これは、たぶんた確かです。「あの時代」に、自分のことだけを考えるのではなく、むしろ自分を犠牲にして、中国の将来について考え、批判した。その精神は崇高だ、というわけです。まあそれはよし。

 しかし、「それ以外の作家や、あるいは民衆は、ダメダメだった。自分のことばかり考えていた」とかいう結論になると、おいおい、と思うわけです。いや、最近は、さすがにこういう研究はなくなってきた、とも思うのですが、今学生との読み会でちょっと古めの論文を読んだりしているのですが(○山先生のとか)、そのあたりのを読んでいると、やっぱりそういう主張を強く感じます。

 あるいは、これも今ではだいぶ見直されてきましたが、「共産党はよくて、国民党はダメ」というのもそうです。当時いくら力が強大だったからといって、国民党に付いたようなやつらは、無条件でダメ、というわけです。

 あるいは、漢奸なんかは、ガチですね。理由がどうあれ、日本に付いたような奴は、有無を言わさずダメ。漢奸をかばうようなものもちょろちょろと出てきましたが(たいていは「善悪の二項対立に意味はない」的な論調で)、しかしそれも、「やむにやまれず」とか「究極の選択だった」とか、そんな方向です。


 しかしなあ、と思うのです。当時一般人として生きていて、「国民党か、共産党か」を選ぶようなシチュエーションがあったとして、そこで国民党を選んだ人たちを責めることって、できるのか? あるいは、日本(の傀儡政府)で働く路を選んだ人たちを、責めることって、できるのか?
 つまり、「倫理的善悪の結論」が出ている今の視点で、そんなの全然出ていない当時の行動を評価するのって、それこそ意味がないんじゃないか? 究極の「後出しジャンケン」なんじゃないか? 「彼はあの時、チョキを出すべきであったのだ。グーを出したのが、間違いであったのだ」という「結論」と、ほとんど同じものなんじゃないのか?

 ここで、昨日のお話に結びつくのですが、経済学のインセンティブ、というやつです。ふつーの人間は、儲け話がある、となれば、ひょいひょい飛びつきます。あるいは消極的に、「飢えたくないから、働く」でもいいですが。仮に「道徳的にどうこう」いう要素があったとしても、それは次の話。

 当時の状況にあって、自分(とその家族)のことだけを考え、利己主義的な道を採る。あるいは、こっちの方が給料いいや、しかも逆らうと怖いし、ということで、傀儡政府の元で働く。これって、インセンティブという点で考えると、まさにふつーのことなんじゃないでしょうか。あるいは、別に日本傀儡の方が給料がいい、というわけではなかったとしても、その後の可能性とかを考え、こっちに就職する、これって、ふつーのことじゃないんでしょうか。むしろ、自分が犠牲となっても利他主義を貫いた(とされる)魯迅みたいな人が、限りなく特殊なんです。

 特殊だからダメとかモデルにならないというわけでは、もちろんありません。しかしかといって特殊を賞賛し「魯迅に学べ」とかいうのも、なんか違うよなあ、と思うのです。

 僕がそこに身を置いているからかも知れませんが、文学研究者は、何とも安直に、大衆批判をしちゃっている人が多い。で、今こそ魯迅精神に学べ、とかいうわけです(さすがに今時、こんなこと言う人はいない、かな。でも「魯迅」をいろんなものに置き換えたバリエーションならけっこうありそう)。しかし、そういう人には、一度インセンティブについてちょっと考えて、「魯迅みたいになって、なんか得することって、あるの?」という問いに、どう答えるのか、を考えてほしい。


 う〜む深夜なのでなにがなんだか。

【追記】
初稿を書いて2時間後、ちょっと書き換えました。


【追記2】
といいつつ例の映画パンフ騒動ですが、いろいろ見ると、「あの最後の1行は、あまりに唐突だ」という意見を(どうやら本気で)書いている人が大勢いるのに、ちょっと驚愕。

ある方がブクマコメントで「あれは、唐突だからこそいいんだ」と書いていましたがまさにそう。とくに「論文」なんかじゃない、ああいう場では。

推理小説だって、「最後の最後でひっくり返る」のがいいでしょ?それと同じ(違う?)。