結論(僕的)

 いまさら 僕のようなへなちょこブロガーが結論を出したところでなんともなりませんが、まあ思考の断片ということで。


 一人の人間にとって、自分の属性(これがいかに、社会的に後付けで形成されたものだとしても)や経験の外に出ることは、容易ではありません。僕が女性や同性愛者、あるいは在日やルワンダ人や、関東大震災時の人々(被害者であれ、加害者であれ)の気持ちになって考える、ということは、はたして出来るのか?仮に考えたとしても、それは「なったつもりになっている」だけじゃないのか?


 そうやってダメ出ししていくと、今現在、関東大震災通州事件、あるいはルワンダの虐殺のことを語っても良い日本人なんて、ほとんどいなくなってしまうわけです。


 しかし、そういう属性ではなく、(おそらく)すべての人間に授かっている、最低限の共通項、「自分や他人の苦痛を少しでも取り除きたい」という点で連帯する、というのが、ローティさんという人の唱えていることで、僕も基本的にはこれに同意します。


 だから、テレビの前でかーちゃんが「あらまた戦争?いやねえ、怖いわねえ」と他人事のように語る、そういう「庶民的」な事象を、笑ったり批判したりするべきではない、と思うのです。それが大事。


 僕が、今この時代に、日本人の両親から日本に、男として、この性格とこの能力に生まれたのは、僕にはどうしようもなかったことです。なので「ルワンダ人や在日の気持ちになれない」ことは、べつに悪いことでも恥じることでもありません(たぶん)。でも、「他人が苦痛に遭っているのを見て、それを少しでも和らげたい」という思いを抱くのは、やはり無条件で「良いこと」とされるべきだ、とも思います。あの映画を見て、何を連想するかにかかわらず。