多用な意見?

 僕は書評ブログもいくつか愛読しています。もちろん普通の記事もそうなんですが、とくに書評って、好き嫌いが分かれる気がします。つまり、自分の好みにピッタリ合う書評ブログは読んでて楽しいのですが、いくら知識の豊富な人が素晴らしい手並みで書いた書評でも、どうも自分に合わないものってあるんですよね。「なんでこの本をこうやって褒める(けなす)かなあ」と。

 で、僕は昔から好き嫌いがない(というか嫌いなものもムリして食べる方)ので、そういう「自分の感性とはちょっと違う人のブログ」も、言っていることが真っ当なものなら無理して見るようにしています。バランスをとる意味でも。でも、普通の人は、そんなことでムダなムリをせず、自分とは違うと思った時点で読まないか、読んでもそれを自分のブログやつーちゃんねるでネタにするんでしょうね。


 今さら言うまでもないことですが、情報がこんなに溢れているのに、というか溢れているからこそ、結局は自分の好きな情報誌か見なくなってしまう、という状況にあるんだと思います。ブログで南京事件の検証をコツコツ行っている人と、つーちゃんねるの東亜板に巣くうような人たち(今はひとまず、どっちが偉いとかまともとかは保留)では、外人以上に話が通じません。


 で、どうするか。個人的には、どうもしなくていいんじゃない?です。「ま、いいんじゃないべつに。多用な意見、ってやつで。片一方が弾圧されるよりマシでしょ」ともいえるし、「所詮はネットの仮想空間限定の出来事なんだから、ほっとけば?東亜板で「中韓と戦争だ!」と勇ましく主張している人たちが、実際に自衛隊に入ることも、デモをすることもないんだし」ともいえるし。

 う〜ん、ちょっと無責任すぎるかしら。

【追記】
ブログやネットやる人は当然ながら「ネットの影響力」を(過大)評価しがちになります。しかし僕は、まだそこまでの影響力はないんじゃないか、という意見です。だから意味ないとかムダだというわけではもちろんないですが。


 卒論シーズン、成績シーズン。

 「この学生は落とすか、通すか」というので、あれこれ迷わされます。

 この「落とす」ということの意味は各学校や教員によっていろいろだと思います。普通に考えれば「点数が基準に満たないから」でOKでは?とお思いでしょうが、じゃあ落とした後どうなるのか、来年もまた同じことの繰り返しでは?とか、そもそもこの学生はいくら頑張っても、ちょっともうダメだろう。諦めて上げてやった方がいいのでは?とか、あれこれ考えるわけです。そもそも、ふつうにやってりゃ通るのをわざわざ落とすということは、何度やっても同じこと、の場合が多い。

 で、僕的学生を落とす理由は、かな〜り消極的ですが、「モラル・ハザードを防ぐため」でしょうか。「あいつの授業は楽勝ダゼ、試験できなくても通るし」となったら収拾がつかないですしね。


【追加】
最近は、1日ネット見ないだけで新しい動きがあります。付いていけん。怖い怖い。

で、町山ブログ騒動、僕は、元のブログ主さんに、心情が近いですね。露骨な嫌韓のとこ以外は。

「この映画はこう見るべきだ」とか、「こんな人間にこの映画を見る資格はない」って、そりゃ余計なお世話でしょう。自分が作った映画でもないのに、というか自分が作った映画だって、「こう見ろ」なんていえるわけがないべさ。

まあ町山さんにしても、映画というよりも、「自分のコメントを、韓国絡みでけなされた」のにカチーンと来たんでしょうね。まあそれはわかりますが、でもこんな反論というかケンカは、ほとんど無効です。と思う。