歴史と教育

 「歴史」が問題として取り上げられる時、その多くが歴史「教育」の問題として語られます。

 それはもちろん、歴史研究者の多くが、いわゆるアカデミズムに籍を置いているからです。やっぱ教育抜きで歴史は語れない、という思いは、ほとんどの研究者に共通していることです。

 もちろん、世の中には、在野の研究者、というのもいます。あるいは、ブロガーにも、プロ研究者顔負けの分析を行う方もたくさんいます。
 で、いわゆる「在野」の方々の場合、「教育」についてはあまり考えず、とにかく「事実」を追うのが大事、みたいな傾向が読みとれます。逆に言うと、アカデミズムや教員系の方々は、何かを研究する時、常に、同時に、「これをどう教育するか」という「差し出し方」(なんか内田チックな言い回しですが)が、なかなか頭から離れません。


 プロと在野、どっちが上、というわけではもちろんありません。「在野は、教育を考えなくていいから、気楽でいいよな」というのも、僕自身、そういう考えが皆無とは言えないかもしれませんが、しかしこんなのは何ら意味のある問いではない、というのも完全に確かです。


 とはいえ、普通に考えれば、「研究と教育を、なんでわけるんだ?研究したとおりに教育すればいいじゃないか」となります。まあこれもそれはその通りなんですが、しかし歴史のような人文系は、理系とは違い(これは偏見かもしれませんが)、たんに研究した事実を教育するだけではダメ、のような不文律があります。これが研究者を縛る。


 例えば、文学。小中高で夏目漱石の「こころ」を読むとして、そこでは必ず何らかの「教訓」(じみたモノ)を教え込むのがお約束です。「友情の大切さ」でもいいし「裏切り者には死を!」でもいいし。逆に言うと、単に「この小説は何年に、夏目漱石によって書かれて…」みたいな「文学史」を教えるだけではダメ、というのが、もうお決まりになっています。

 歴史もそうです。「何年に何が起きて、それによって何人が死んで…」という暗記ではダメ、というのがこれもお約束です。そこに何らかの意味・教訓を読み取る。

 たとえば、今けっこう議論沸騰の(それゆえここで触れるのはやや怖いのですが)、南京事件。何千人、何万人、あるいは十何万人、あるいは何十万人が死んだ、というのは、ハッキリいって結論は出ていませんが(僕個人的には、やはり笠原先生の研究を支持しますが)、まあしかし結論が出たとします。「研究」はそれで十分です。しかし「教育」になると、「南京事件では何人死にました。おしまい。」ではなく、そこから教訓を読み取らねばならないのが決まりなんですね。

 で、「教育」になると、実はどういう教育をするか、どういう教訓をコドモに教え込むべきか、というのは、実はもう完全に恣意的なことです。「日本は残酷なことをした。だからもう二度とそういう過ちは繰り返してはならないし、中国に謝罪や賠償をするべきだ」というのもあれば、「日本は何で負ける戦争をしたんだ。今度戦争をするときには絶対に負けないような戦争をするべきだ」というのもあれば。このどっちが「正しい」かを判断する審級は、ありません。「道徳」などを持ち出してもムダです。歴史を「教育」する限りにおいては、あくまで、「どういう教育をするのがいいのか」は、恣意的なものにならざるを得ません。


 とゴチャゴチャ書いてきましたが、要は、小中高の生徒にとっては、「日本は大変残酷なことをしました。みなさんも、二度と戦争はしてはいけませんよ」という教えも、「日本は立派な国であり、戦争も致し方なくしたことです。皆さんもご先祖を誇りに思いなさい」という教えも、どっちもウゼーものだ、っちゅうことです。


 「じゃあどうすればいいんだ、教育なんかするな、ってか?」といわれると、僕にも完全な答えが出ているわけではないのですが、ただ、今の教育の場合、右も左も、「教育した結果、コドモがどう考えるか」というところまで踏み込んでいるのが、ちょっと鬱陶しく感じられるんですね。どっちも、「コドモをこう教育した。だからコドモはこう考えなくてはならない、こう考えるはずだ」と。しかし、正直、教育の結果コドモがどう考えるか、そこから何を読み取るか、などはもう完全に「神のみぞ知る」ことです。「日本の立派さ」を小学生から教え込めば、憂国の士になるはずだ、なんてほとんどタワゴトです。あるいは、「そういうコドモが増えれば、日本はよくなる」なんてのも、ヨタ話。


 なので、今のところは、「事実から教訓をすぐに結びつけず、とりあえずいろんな選択の可能性がある、ということを、コドモに提示する」ということぐらいですかね。あるいは、自分の教育が、結果的に「どっち側」かに偏るのはもう不可避なこととして、しかしそれ自体も、所詮は恣意的なものである、ということを自覚しつつ、しかしあえて「どっち側」を教える、ということかしら、僕的答えとしては。