言葉の通じるヤンキーか言葉の通じない学者か

 周りの先生はいろいろ忙しそうなのに、なぜかおいらはヒマ。なぜ?

 まあいいや。ちょっぴり昨日の続き。

 仕事柄(とはいっても、同業他者よりは、格段に少ないとは思いますが。性格と、場所柄のせいで)、中国の人と接することが多いです。

 で、接するにつれ、「やっぱ、オレらと、ずいぶん違うなあ」と思わされることが多数。


 ここでクヨクヨ迷うわけです。「“オレら”ってなに?目の前にいる中国人よりも腹の立つ日本人だっていっぱいいるじゃん。深夜のコンビニでウンコ座りしているヤンキーよりは、中国人の学者の先生の方が、よっぽど心情が近いし」とか、

 「そんなの、“一過性”のものにすぎないって。そのうち国境とかが無意味になったら、“オレたち”と“中国人”なんて区別は無意味になるし」とか、

 「そもそも、「話さなくても、雰囲気で理解出来る」とか「言われた仕事は、文句をいわずにやり遂げろ」みたいな“日本的な考え”自体が幻想か、あるいはそういうのは“劣った”ものだから、そのうちなくなるって」とか。


 こういうふうに考える、ということ自体は、まあ「誠実な」ものかもしれません。ただ、これの片思いはやはりツライ。というのも確か。


 となると、やはり、最初の考えがいいんでしょうかね。「オレが日本人だからといってオレを嫌う中国人がいるかもしれないが、でもオレが気に食わないといってオレを嫌う日本人もいる。どっちも一緒だよ」と。

 実際、オレら人文系にネチネチとイヤミを言ってくる某学長さん(医学部系)よりも、人文系の同僚で、「考え方の違い」からいろいろ(多分お互いに)イヤな目に遭っている中国人の先生の方が、共闘できそうだし。


 今度は教育。
http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060129
ここのコメント欄で、「学歴」と「誰もが学べる」が議論されています。僕もちょっと加わったりして。

 最後には「インセンティブを与えつつ、しかも誰でも学べる」「学歴といっても、どの学校を出たかではなく、何を学んだかで評価する」ということで、ひとまず落着。

 しかし、物事はそんなに簡単かしら。インセンティブというのは、それが貴重なものだから高まるわけで、じゃあなぜ貴重かといえば、「他の人が持っていない、もしくは持っている人が少ない」からだと思うのです。前にもちょこっと書きましたが、「みんなが同じ技能」を持っていたらそれは評価されないわけです(例えば、「歩く」能力を評価される、ということはありません)。

 そもそも、「何かを学ぶ」ということは、「学んでいない」人や状態よりも付加価値が加わる・差異化を図れる、からこそ学ぶわけです。ということは、「学んでいない人・状態」よりも価値が高まる。自動的に、学んでいない人・状態は価値が下がる。原理的にこうとしかならないと思うのです。

 だから、「どの学校で学んだか」は仮に問われなくなったとしても(これもなかなか難しいと思いますが)、「何を学んだか」が問われるとしたら、どう頑張っても「学歴社会」は形成されます。教育を全て義務教育化して、しかも学ぶ内容も全て一律にする、ということを行わない限りは。

 まあ、後は匙加減なのかな。


 ところで、僕はちょっと前まで、「大学全入時代になったら、学歴社会は崩壊する」と無邪気に思っていましたが、どうやらそうはならず、むしろ、誰でも入れるからこそ、今まで以上に「どこを出たか」が問題になってくる、という実態があります。う〜む。