再びアイデンティティ

 最近マイブームのアイデンティティについて。やっぱ「脱アイデンティティ」はキツイんじゃないかと思う理由。


1.アイデンティティには「オレは○○だ」というアイデンティティと、「あいつは○○だ」というのの2つがあると思います。このうち、「オレは○○だ」のほうは、まあ本人の心がけ次第で何とかなるかもしれませんが、「あいつは○○だ」の場合、本人の努力ではどうしようもありません。
そして、この両者、往々にして「後者」→「前者」、という遍歴を辿るのが常です。普段、僕のような「日本人」が、「ああ、オレって、日本人だな」と思うことって、ほとんどありません。君が代も日の丸も別に、って。ところが、一歩外、つまり外国に出ると、途端に自分の中の「日本人」が覚醒します。中国人に「あの戦争は……」とか議論をふっかけられたりして。よく、「日本人男性は、留学なんかで外国に出ると、ナショナリストになって帰ってくる」と揶揄されますが、これは当たり前といえば当たり前のこと。
中国に行って、「オレは日本人というアイデンティティを持っていないから、戦争については知らん」といえるかどうかがポイントになると思います。


2.今の時点では、「脱アイデンティティ」自体が強烈なアイデンティティを形成してしまうこと。「オレはなに人でもない。○山×男という一人の人間だ」というのは、けっこうすごいアイデンティティだと思います。仲正さんがいう、「今の左翼は、生き生きしている」というのがこれに当たると思います。『脱アイデンティティ』に執筆している方々、上野さんにしろ小森さんにしろ、みんな生き生きしています。これって、まごうことなき「“脱アイデンティティアイデンティティ」だと思います。
本当に「脱アイデンティティ」を望んでいる人は、「ここまで強烈な「“脱アイデンティティアイデンティティ」を持たなければ、「脱アイデンティティ」は達成されないのか」と、尻込みしてしまうでしょう(まあ僕もその一人、かも)。


これの処方箋としては、上野さんが前々から主張しているように、「もっともっとアイデンティティを」なんでしょう。いろんなアイデンティティを身に纏う(「研究者アイデンティティ」でもいいし「空手家アイデンティティ」でもいいし「メジャーリーグファンアイデンティティ」でもいいし)ことで、一つ一つのアイデンティティを相対化する。まあこれはまったくその通りだと思うのですが、ただ、この「もっともっとアイデンティティを」というのは、けっこうなコストがかかる、ということも事実でしょう。これを(おそらくは)実践している上野さんのように、能力なり文化資本なりがふんだんにあってこそ、初めて可能なことです。あるいは、「たまたま、アメリカ人の父と日本人の母の元に、中国で生まれる」とか、「戦争時のレバノンに、キリスト教徒として生まれる」とか、そういう偶然の要素か。こういう処方箋が一番必要と思われる、ガチガチの日本人、自分の工場が潰れ、その原因が「中国から安い製品が入ってくるようになったから」だとされて、「クッソー中国人め!」みたいな思いを抱いて小泉や安部晋ちゃんに1票を入れるような方々には、これはあまりに値段の高い処方箋です。


僕の思考は今のところここまで。誰か続きをご教示下さい。

【追加】
さっき、「中国に行って、「オレは日本人というアイデンティティを持っていないから、戦争については知らん」といえるかどうか」と書きましたが、これはやや拙速でしたね。高橋哲哉さんなんかが(たしか)主張しているように、「戦争責任については、その責任を「全ての人類に課せられたもの」として引き受けながら……」(たしか。まったくうろ覚えですが)という方向性も、ないことはない。ただ、これもまた、「相手側の合意」があって初めて成り立つことなんじゃないでしょうか。そしてこういう「良心的」(決して揶揄ではなく、本当に良心的だと思います。見習いたいほどに)な呼びかけは、往々にして片思いに終わるか、もしくは相手側もごくごく一部の人の合意を得るだけにおわってしまうんじゃないでしょうか。

【追加2】
かなり前、B,アンダーソン『想像の共同体』を評して、佐伯啓思が「アイデンティティが彼の言うように「新聞を読んでいれば自然に出来てしまうもの」だとすると、それはもう批判するとか解体するとか言う行為は無意味になる」といっていましたが、まあこれが本質的な点だと思います。戦争中、日本が台湾人や朝鮮人を「日本人」にしようという努力がムダに終わったように、そこらのオヤジに「日本人をやめろ」と説得するのも、なかなか難しい作業です。

【追加3】
上の2に補足ですが、僕なんかが見ると、「Aのアイデンティティを持つ者」が「Bのアイデンティティを持つ者」を攻撃する図と、「アイデンティティを持たない者、持たない方がいいと主張する者」が「(AなりBなりの)アイデンティティを持つ者」を攻撃する図が、ほとんど同じに思えるんですね。

まあしかし、こういう風に、他人の主張のアナ・アラを批判するのは、実は造作もないことなのですが、「じゃあどうしろとお前は言うんだ」と言われると、うーん。やはり、「脱アイデンティティ」は見果てぬ夢として、数百年後、数千年後の人類に期待しながら、より「脱・攻撃的」なアイデンティティを模索するぐらいしかないんでしょうか。続きはまた次の機会に。

【追加4】
うーんでも、「アイデンティティ」の方々(愛国心がどうとか言っている)の生き生きよりは、「脱アイデンティティ」の方々の生き生きの方が、まだまし・無害、ということもいえるし。もうほんとにわからん。

【追加5】
さて、このエントリで、「アイデンティティ」という単語を、何回使ったでしょう。