もじれる日々

 コメントにレスをいただいたから、というわけではないのですが(というかやっぱりそれが大きいのですが)、こないだ書いた「僕的2大おもしろブログ」のうち、やっぱり本田さんのに軍配をあげます。

 内田さんのは、もうたぶん誰かが指摘しているでしょうが、「この世の中に解答のある問題は少ない」といっておきながらやたらと解答を示したがる。「……というものである」「……と申し上げているのである」と、語尾はほとんどが断定口調。自分のやっている「学問」の価値を、露ほども疑っている気配はありません。「すっきり解答」を望むオヤジ(僕も含めて)にはウケはいいんでしょうけど、世の中そんなに簡単なもんじゃないよ、と逆切れしたくなることもしばしば。

 いっぽう本田さんのは、やはり「もじれる」(パクってしまいましたが)ところがいい。そうそう、僕もたいがいにもじれております。


 大学で文学を教えても、就職には役に立たないし、学生にはなんと言ってモチベーションをあげればいいのやら。かといって、「中国語をやってれば、将来役に立つ」というエサで釣るのもなんだかなあ。大学からは役立たずみたいに見られるし、でもそうかと思うと、学生はけっこうくるんだよなあ。他の政治・経済系の学科に比べても、偏差値はむしろ高いくらいだし、実際学生の質もいい。でもだからといって、その状態にアグラをかいていていいものか。周りの先生は、インターンみたいな活動にすら「なんで学生にそんなことをさせる必要がある、勉強時間が減るじゃないか」と非難囂々。なんか、危機感がないんだよなあ。でもたしかに、「大学で文学なんかやっても仕方がない」という意見に同意することは、自分自身の存在価値をも疑うことになる。僕だって、大学入学以後それなりにマジメに勉強してきて、それが一応報われて今の大学に就職できたんだろう。「大学に文学はいらない」って、そういう努力をすべて「ムダ認定」してしまうことにはならないか?ああどうすりゃいいんだ……


 みたいなことをぐだぐだ考えてもじれる毎日です。まあしかし、仮に「文学研究・教育」自体はムダだとしても、解答のでない問題にこうやってぐだぐだ考えることは、決して無駄にはならないんじゃないのかなあ、という超漠然とした結論(にもなりませんが)でお茶を濁す毎日です。

 勝手な想像ですが、たぶん本田さんも、自分のやっていることに、「最終的な結論」があるとは思っていないんじゃないでしょうか。すべての若者を救うことなどできない、ではどうすればいいのか、「より多くの若者」を救うのがいいのか、それとも数ではない、もっと他の所にこだわるべきなのか、そのあたりの「もじれ感覚」が、僕にはまさにピッタリはまるのです。

 まあ、ぐだぐだ思い悩むのもたいがいに辛いものがありますが。


 ついでに、再び独創性について。今は採点シーズンですので。

 レポートや小論文とかで、「独創性」というポイントがあるのですが、これっていつも悩みます。

 例えば、10人の学生の小論文の採点をするとして、「論理性」みたいな項目だったら、優が2人、良が6人、可が2人、ぐらいの割合に収めればいい。でも「独創性」の場合、それだとダメです。10人中2人が「独創性に劣る」ということはありえません。独創性は、あるか、ないかの2分割、しかもつねに、独創性が「ない」ほうが多数にならねばなりませんので、「ある」が2人、「ない」が8人とか、そうならねばなりません。でもそれだと、点数が付けにくいんですよね。
 つまり、「独創性」は、全員の答案を一通り読んでからでないと付けられない、純然たる「相対評価」です。最初の方に採点した答案で、「おっこの意見面白いな」と思って良い点付けたら、後でけっこう同じことを言う人がいた、というのはよくあることです。

 なので僕は、「独創性」の配点はかなり低くしています。「他の人とは違ったことを書く、する」というのは、「結果的にそうなった」のならともかく、「最初からそれを狙う」とか、「それ自体が目的化する」というのは、なんだか世知辛く思えて。