連帯感

 「大いなる幻影」という映画をDVDで見ました。内田さんのブログで言われているように、ここで描かれているのは、戦争でありながらも、双方(仏独)が阿吽の呼吸で、暗黙の了解の元でのゲームとして行われている、ということです。(内田さんは、「いつ自分が負けるかもしれない」という想像力のためだと書いていますが、僕はやはり「ヨーロッパ人同士の連帯感」に起因するものだと思います。ドイツ人が、アジア人の敵に対して、同じようなことができるとは思えません)

 ヨーロッパって、そうなんだよなあ、と常々思っています。とくに感じたのが留学の時。彼らには、まさに「国境を越えた」連帯感があるなあ、といつも羨望のまなざしで見ておりました。いくら「ドイツ人は堅物だ」とか「フランス人はふにゃふにゃだ」とかそれぞれで悪口を言い合おうが、でもそれはやはり仲良し同士の戯れ、なんじゃないかと思います。

 いっぽう、アジア人同士、もっと言えば東アジア人同士にそういう連帯感があるかというと……まあ、ちょっと、むりですね。


 もちろん、こんなのは「心の問題」で、実体のあるものではないですから、「連帯感は、ある!」というかたもいるでしょうし、また「そんなのは個人個人の問題だ!」というかたもいるでしょう。しかしながら、やはり僕は、もちろん要因は様々でしょうし、「日本側」が自分たちからこういう連帯感を拒絶している、という点があることも承知の上で、しかし今のところ、こういう連帯感はない、と考えます。

 これの傍証が、やはり戦争の問題。例えば独仏など、それこそ有史以来、幾度となく戦争を重ねてきたわけですが、それでもこの両者の連携に、この問題が致命的な影を落としているようには見えません(そもそも最初に書いたように、戦争自体がゲームだったから、かもしれませんが)。一方、日本と中韓の間は……もういうまでもないでしょう。

 もちろんもちろん、「それは日本のせいだ、日本がちゃんと謝らない・補償しないからだ」というのは、一義的には正しいでしょう。ただし、そもそも連帯感というのは、基本的には双方から自然発生的に生まれるものである以上(「上から押しつけられた連帯感」というのは、往々にして逆効果になるというのは、想像すればすぐに分かります)、「それが結べないのは、片方のみに責任がある」みたいにどちらか一方に責任を問うようでは、もうそれですでに連帯感は破綻している、と思うのです。


 だもんで、東アジア共同体、推進派は「とりあえずくっつけば、自然に仲良くなるさ」と考えているのかもしれないし、まあそういう可能性がないとは言えませんが、しかし今のところは、まず無理だろうなあ、というのが感想です。ではどうすればいいのかは、ちょっと分かりません。