変わらなきゃ!

 いろんな人のブログを見ていると、やたらと攻撃的な人っていますよね。マンション偽装の時に話題になった○っこさんとか、台湾問題を扱う○じなさんとか。

 読んでいる分には、まあこういうのって面白いですけど、でも、ちょっとなあ、と思うこともしばしば。

 こういう人たちって、思うに、自分側を「揺るぎない正義」と考えて疑わないんでしょうね。で、相手側が100%間違っている、今オレが、日本が、おかしくなっているのはあいつらのせいだ、というわけです。

 本当かなあ。


 前にも内田さんのブログを紹介して書きましたが、世の中の問題は、「解答可能なもの」と「不可能なもの」の2種類があります。で、ほとんどの問題は「不可能」に入ります。
 例えば、靖国問題。この問題は、右も左も「こうあるべきだ」「こうなるのが正しい」と持論を展開していますが、しかしこの問題に、100%正しい解答などあるはずがありません。中国人・韓国人が首相の靖国参拝を腹立たしく思うのも事実だし、一方日本人の中に参拝したい、参拝の何が問題なんだ、と考える人がいるのもまた事実です。「どっちかの考えが間違っている」などといえるものではありません(その意味で、小泉首相がしきりに、「靖国問題で、外国やメディアは、なぜ心の問題に踏み込むのか」と言っているのは、なかなか秀逸な言い訳だと思っています)。

 もちろん、「解答」が不可能だからといって、「解決」も不可能、というわけではありません。いろいろな状況を見て、どっちがより望ましいか、どっちが我慢すべきか、と考えることは可能です。


 僕などは、自分の意見をコロコロと変える方です。誰かに言われたり、何かを見たりすると、すぐに影響されます。一般的に考えれば、「研究者にはあるまじき資質」です。

 でも、手前味噌であれですが、今必要なのは、多くの人が、「自分の意見を変える」柔軟さ、なんじゃないかと思っています。


 週末はセンター試験。入試シーズンも始まりです。

 ふと、数年前、指導教官と議論したことを思い出しました。

 その時、僕は自分の論文で、「科挙は非常に敷居の高いものだった」と書きました(科挙を扱った論文ではなかったんですけど。というか、僕が科挙についての論文を書くなんて無理です)。すると指導教官は、「いや、科挙というのは、誰もが受けられるシステムだった」といいました。それでしばし議論に。

 これもまた、「どっちが正しいとは決められない問題」です。科挙は誰でも受けられる。これは事実です。しかし、いっぽうで、「そうかといって、実際に、誰もが受けられるものではなかった」と言うのも事実だ、と思うのです。

 こういう問題は、今でも続いていると思います。例えば、我々は、東大を受けようと思えば誰でも受けられます。年寄りだろうが、貧乏人だろうが。しかし、そもそも「受からない/受かるはずがない」という問題、も当然ながら、やはりそれは庶民には「受けることができない」ものなのです(ここでは、「東大なんてたいしたことない」とかそういう突っ込みは封印します)。東大出の人が「誰でも受けられるんだから、お前も受ければいいじゃねえか」と言っても、なんの慰めにもなりません。


 学力劣等者には、「どの大学に行くかなど問題ではない、大事なのは大学に行って何をやるかだ」系とか、「そもそも大学なんか行かなくてもいいんだ」系とか、いろんな逃げ道が用意されています。もちろん、それに一片の真理も含まれてはいないとは思いませんが、しかしそれはそれで、今のヒエラルキーを温存することなんだよなあ、とか思っております。