評価

 今は卒論シーズン。学生さんの卒論をいろいろと読んでおります。

 教員になって、当たり前のことながら、「人を評価する」機会が急激に増えました。卒論やレポートやテストや。

 それと同時に、「人に評価される」機会も、徐々に増えています。「自己評価」やらなにやら。ちなみに「自己評価」というと自分で自分を勝手に評価するみたいなイメージがありますが、さにあらず。最初に自分自身を評価するというのはその通りですが、次にその評価を、上の方の方々が評価するのです。何をどう評価するのか/されるのか、いまだに僕もよく分からないのですが。


 まず始めに言っておくと、ぼくはこういう「勤務評価」みたいなのを大学に導入することには賛成です。今までは、あまりにも野放し過ぎました。前にも書いたように、「これやってください」「いやです」「そうですかわかりました」ですんでしまったり(もちろん、これの全てがおかしい、というわけではないにしろ)、論文を書こうが書くまいが、定年まで安泰だったり。僕は仕事をする方では全くないですが、そんな僕の何分の一しか働いておらず、しかも僕よりずっとずっと給料をもらっている、という憎むべき教員がいることも確かです。そういう教員を一掃、あるいは改善するためにも、何らかの評価制度は必要だと思います。

 それを前提とした上で、しかし、評価をするからにはそれなりの覚悟やシステムでもって評価して欲しいものだと強く思います。評価というのは、本来は、「評価される側」よりも「する側」の方がレベルが上、あるいはせめて同等であって初めて成り立つものです。僕が「アンチ・ドジッター時空上の超弦理論の可積分性について」についての論文の評価をするなどというのは不可能です。「素人にとっても分かりやすいか」というのも、評価の一要素になる、というのはなくもないかもしれませんが、まあそれも評価のごく一部分に過ぎないでしょう。

 「研究」を評価するなら、本来は同じ分野の先生による評価も必要なはずです。しかし一般の大学では、「一つの分野の教員は一人」であることがほとんどですので、実際にはたんに「本数」で評価することになり、その結果、「とにかく書けばいい」という風潮になるわけです。

 「教育」の評価もそう。最近ますます「学生による授業評価」が重視されるようになってきています。
 これも始めに言っておくと、(うちでも一部の先生が言っていますが)「学生の授業評価」にまったく意味がないとは思いません。それも一つの要素にはなるでしょう。でも、それが全てではない。学生時代は「イヤイヤ授業を受けている」状況であっても、しかし大人になって、あるいは社会人になって、「やっぱりあの時の授業が役に立った」という経験は、けっこう多くの人が持っているんじゃないかと思います。なので、もし本気で評価するなら、やはり「授業評価の専門家」に依頼するとか、そのぐらいのことはやって欲しいものです。でも実際には、教員同士に授業見学させて、適当に意見を言い合う、程度でお茶を濁している状況です。


 今後いろんな場面で、「評価される」ことが多くなるでしょう。「業績主義」とかで。でも、もし評価するなら、やはりそれなりのシステムを作って欲しいものです。もちろん、僕も、学生を評価する時には、それなりの覚悟でやらないと。


 話は飛んで。
http://blog.tatsuru.com/archives/001488.php
そうそう、まさにそういうことなんですよね。中国研究者は、「中国好き」(こっちが圧倒的に多い)にしろ「中国嫌い」にしろ、自分の願望と現実をごっちゃにしすぎです。もっと冷静にネ。