無用の用

 クリスマスの1週間ほど前から、勤務校で、敷地にある広場にイルミネーションの飾りを付け、午後5時から10時まで電球でピカピカさせ、一般市民の目の保養にするる、というのをしております。昼間、事務の方たちが飾り付けをしている様子を見て、「ああ、これも仕事の一環なのかしら」と、なんとも複雑な思いに囚われたものです。

 実はそういう計画が出た当初から、周りの教員たちの間で、案の定、という反応が出ておりました。つまり、「そんなのカネのムダだ」というものです。

 そしたら地元新聞にも、学生と職員から、「そんなのムダだ」という投書が載りました。今日の朝刊に載った職員(匿名)の投書では、「昨今、研究費やなにやらを削減されつづけ、“ムダな出費は減らそう”と言われ続けている中、こういうイルミネーションこそムダではないか」というものでした。

 こういう意見は僕も真っ先に思いました。そもそもうちの学校は市内からちょっと離れているうえに、イルミネーションも「わざわざ」遠くから見に来るほどの規模でもない。帰りに前を通りかかっても、市民の方が見に来ている現場に居合わせたことは一度もありません。こりゃムダだわい。


 しかし……。

 高校の時の国語の先生が授業の時に話した言葉で、今も記憶に残っていることがあります。「街中のイルミネーションって、一見なんの役にも立っていないように見える。別にあってもなくてもいい。でも、行き交う人々が、そのイルミネーションを見て、心がちょっとだけ和む。そういう、金銭なんかでは計れない効用がある。文学もそういうものじゃないかと思うんだ。」
 この言葉に触発されて、僕は文学を志したのでした……などというとカコイイかもしれませんが、別にそういうわけではありません。文学部に入ったのもたまたまです。そもそも、当時も、今も、この言葉に100%共感しているわけでもありません。

 でも、なんか心に引っかかっているんですよね、この言葉……

 「そんなのムダだ」「役に立たない」というのが「魔法の言葉」(どっかの高校の校歌みたいですが)のように世の中を支配している中、こういうイルミネーションをささやかにやっていくことって、もしかしたらそれなりに大切なのかもしれない。少なくとも、大学における「役に立たない分野」の筆頭に挙げられることの多い文学、もっと広く取ると人文系にとっては、こういうイルミネーションこそが、むしろ自らの地位の拠り所となるのかもしれない。

 
 なので、「あれって、ムダだよね〜」という先生方の立ち話にも、「ええ、まあ、そうですねえ」と適当に相づちをうって立ち去る僕なのでありました。