システムの外

 お正月休みも今日で終わり。まあ普通の人よりはよっぽど長いので文句は言えません。

 正月中はアメリカ映画と中国映画をあれやこれやと見ましたが、それで思ったのが、この二つ、よく似ているなあ、ということです。
 そういう映画を選んでみた、というのもあるんでしょうが、敵や悪い人間が出てきたり悪い出来事が起こって、それを倒して解決して、ハッピーエンド。
 まあ要はプロパガンダ、ということになるんでしょう。このプロパガンダというのも便利というか幅の広い言葉で、世の中の表現物は全てプロパガンダだ、という言い方だってできます。別に北朝鮮映画や文革期の中国映画みたいなものだけじゃなく、恋愛映画だって、「こういう風に恋愛することこそ、“正しい”人間のあり方なのです」というプロパガンダ、と読むことだって可能、というよりまさにプロパガンダそのものです。

 それはさておき、僕は昔から不思議だったのですが、プロパガンダ(ここでは、まあ狭い意味で、政治的教義の押しつけ、に限定しておきます。小谷野氏がいうように、「恋愛教」のほうがずっとずっと怖いプロパガンダかもしれませんが)って、見せられる方は、「これはプロパガンダだ」って気づかないものなんでしょうか。敵と味方がはっきりしている「勧善懲悪」なんて、世の中そんな単純じゃない、こんなのはデマだ、と。少なくとも今の日本だったら、こんな単純なプロパガンダ映画、箸にも棒にも引っかからないでしょう。とはいえ、他の国が作ると、結構面白いのが不思議です。

(もちろん、これにはいろんな留保がつきます。まず、そういう映画が作られているからといって、「アメリカ人や中国人がそれを信じているわけではないのではないか。プロパガンダだと気づいているのではないか」という疑問。次に、「日本だって、戦時中はさんざんプロパガンダに騙されてきたじゃないか」という疑問。それと、「今の日本だって、「戦艦大和がどうした」とかいうプロパガンダ映画が次々に撮られているじゃないか」という疑問。最後に、日本だって、時代劇に代表される勧善懲悪モノの伝統があるじゃないか、という疑問(この最後については、「でも、日本の時代劇と、ハリウッドって、やっぱり違うよねー」と思うのですが詳しい分析はまた今度)。こういう都合の悪い疑問は、全て封印します)


 で、いきなり飛躍して思うのですが、米中などと日本って、どうも思考回路が違うんじゃないか、と思うのです。つまり、「ネクスト・ステージ、あるいは“システムの外”を、米中は信じられるけど、日本は信じられないんじゃないか」ということです。

 一見、「システムの外」を信じられない、「全てはシステムの中」と考える日本の方がプロパガンダに引っかかりそうなものですが、そこが落とし穴です(そんなに大げさでもないか)。「全てはシステムの中」の場合、プロパガンダを行う主体さえもが、「システムの中」に位置づけられてしまうのです。なので、いくら説得力のあるプロパガンダを受けようが、「ふん、どうせあいつ(政治家でも予言者でもなんでも)だって、オレたちとかわんねー人間だよ」のひと言で片づけられてしまう。

 いっぽう、米中は、今あるシステムの外部を考えられる。「今は悪者が邪魔をしたりして完全な世の中ではないけど、悪者たちを一掃すれば、やがては良い世の中になる」とか、あるいは「昔は悪い世の中だったけど、悪者たちをやっつけて、今はすっかり良い世の中になった」とか、「今あるシステムとは違うシステムを想像することができる」んじゃないか、と思っています。

 政治システムを見ても、これってなんとなく頷けます。アメリカのように政権交代を繰り返すことができたり、中国のように繰り返し革命を起こすことができるのって、まさに「ネクスト・ステージ」を信じているからでしょう。一方日本は、こないだの選挙の結果を見ても、政権交代や、二大政党制すら、もうほとんど期待できないことが分かりました。というのは、日本人は心のどこかで「誰が政治家になっても、どこが政権取っても、日本はなんにも変わんねーよ」という諦念があるから、なんじゃないでしょうか。首相を変えても、あるいは官僚や政治家を総取っ替えしても、おそらくは何も変わらない。なら面倒くせー、今のままでいいじゃん。

 これって、日本が成熟しているのか、それとも幼稚なのか、わかりません。「日本人は、井の中の蛙だ」的な言い方もできるでしょうが、でももし、「本当にこの世の中には外部はない」のだとしたら(実は僕もこう考えていますが)、「日本人の方が、大人じゃーん」とも言えることになります。ただいえるのは、こういう「システムの外」を信じられない人間を説得し、「いや、現行システムが全てじゃないんだ、変われるんだ」と説得するのは非常に難しい、ほとんど不可能なことだ、ということです。「外」を信じられない人間にとっては、説得者すら、「システムの内部」に見えてしまうからです。「お前らだって、今の世の中でいい目見ているんだろ?そんなヤツのいうこと、誰が信じるかヨ!」と。

(これは、例えば、ある宗教を信じている人を脱退させることの難しさに比較できるんじゃないでしょうか。信者にとっては教義が全て、その宗教世界が世の中の全てですから、その「外部」からいくら「そんな宗教はやめなさい」と言っても、「ああ、あの人は、まだ救われていない、気の毒な人ですね」となるほかないのです。)

 話が飛びましたが、ネクスト・ステージ、つまり「今より良い世の中」を信じられるからこそ、それを宣伝するプロパガンダ映画にコロッと引っかかっちゃう、なんか、そんな気がするんですよね。


 まあ以前から、中国とアメリカは、どっちも「自分たち=世界」という考えを持っている特殊な人たち(でもないか。人口的には4分の1は占めているわけですから)と言われていますが、彼らを相手にするのは、なんとも厄介なこと、なのかもしれません。