と思ったけど

 結局今日も書いちゃいます。そう、ヒマなんです。そしてそのヒマが今日のお題です。

 こことかこことかで、「大学教員はヒマか」というテーマで盛り上がっております(これ自体、というかブログ自体、それなりにヒマじゃないとできないんじゃないか、というのはさておき)。

 これ、とくにフラスコさんの反応(とそれに同調する人たち)を見ていると、2つの点で興味深い。

 まず1つめ。日本男児にとって、「お前(の仕事)はヒマだ」といわれるのが、ものすごい屈辱なんだろうなあ、ということ。あまカラ氏みたいな人に「大学教員なんて民間の何分の一も働いていない、使えないやつらだ」と罵倒されたら、「はい、我々はあなた方庶民とは違って優秀なので、遅くまで残業したり這いずり回って営業したりするような、そんな労働のための労働とは無縁です。昼間っからのんびり本を読んでネットサーフィンしていますよ。みなさん庶民は、どうぞ我々のために、朝から晩までノルマに追われてしっかり労働してください。はっはっは」(注:これはあくまでも例です)といなせば済むことじゃないですかね。しかしやはり、「男たるもの、仕事に身をすり減らすようでなければ、ダメ」みたいな価値観が、多分強固に残っているんでしょう。もちろん、ぼくも、そういう価値観から完全に自由ではないですけど。

 次に2つ目。これは興味深いというよりは疑問ですが、フラスコさんは、

時間云々の問題ではなく、仕事の内容のほとんどが「雑務」であること。
言葉を変えれば、「研究以外の仕事は、まったく業績に関係ない=給料にも将来にもつながらない」ってことが原因なんじゃないですかね?


なので大学教員の仕事は大変だ、といっているわけですが、これってどう考えても逆だと思いますけど。つまり、「雑務はまったく業績に関係ない」からこそ、つまり、「やってもやらなくてもいい」からこそ、民間の人たちから見るとうらやましい、んじゃないでしょうか。

 民間では、それこそ営業の人が「あ、トイレ掃除もやっといて」といわれても、ほとんどの場合断ることはできません。仮に断ったら、即座にマイナス査定されるでしょう。つまり、「業績に関わる」わけです。
 一方大学教員の場合、まあこれはフラスコさんもいうように、「やってもやらなくてもいい」のです。これが、大学教員2年目の僕にはビックリした点でした。

 「○○やってください」
 「いやです」
 「そうですか、わかりました」

基本的にはこれですみます。もちろん、断ったらあとでつまはじきにされるとか(注2,私の勤務校がそうだ、というわけではないので念のため)、仕事が特定の少数に集中するとか、いろいろと「弊害」はありますが、基本的には「いやです、やりません」ですんでしまうのが大学です。

 で、「いわれたら絶対に断れない」のと、「いわれても断ればいい、でも仕事は特定の人々(断れない人々)に集中する」のと、どっちの職場がいい?と聞かれたら、ほとんどの人は、「後者がいい」というと思うのですけどね。

 別にフラスコさんの忙しさを否定するわけではなく(そもそも、「他人の、会ったこともない人の忙しさを否定する」なんて、おかしな話ですし)、実際にお忙しいんでしょうけど、ただ相対的に見れば、大学教員はヒマです。で、それを認めた上で、「ええヒマですが何か?」と切り返すような余裕が、知的エリートたる大学教員の目指す道なんじゃないでしょうか。


 ヒマなのでいっぱい書いちゃいます。

 今さらながら、北村稔『「南京事件」の探求』を読みました。面白かった。

 いわゆる「南京大虐殺」については、2000年頃に『世界』で論争がおこって、「感情の記憶の大切さ」みたいなので決着が付いたように記憶します。つまり、「本当に南京で30万人が死んだのか?そもそも人口はそんなにいなかったんじゃないか?」という疑問に対し、「いや、「事実」とは他に、「感情の記憶」というものの大切さを認識しなくてはならない」という議論です。

 しかし、僕は当時から、どうしてもこの議論には賛成できませんでした。というか、ものすごく滑稽なものに思えました。

 なんといっても解せないのは、こういう議論が、他でもない、「学問」によって存在基盤が成り立つアカデミズムに所属している人たちから起こったことです。

 念のためにいっておきますと、この場合の「学問」とは、「崇高」とかそういうイメージで語られるものではありません。
 「研究」という行為にすべての時間を捧げることができる(教育とかそういうのは措くとして)ごく少数の人々が、一般人には時間的にも、身分的にもアクセスすることができない資料を使用することができる、という特権(かどうかは分かりませんが)によって、自らの存在意義を成り立たせているもの、ぐらいのイメージです。

 回りくどい言い方ですが、要は、「学者の存立基盤は、素人がアクセスできない材料を使うことによって、〈真実〉(と思われるもの)を提示することにある」といいましょうか。

 もっとぶっちゃけていうと、「世間知」ではなく、「専門知」を提示するところにある、となるでしょうか。

 
 しかし、「感情の記憶」なんていっている人たちが主張していることは、「世間知>専門知」である、ということです。「南京で人がいっぱい死んだ、それでいいじゃないか」と。
 こういう主張はまあアリだとします。しかし、それって、大学の先生がいうことでしょうか。この人たちは、なにによって、「大学教授」として威張っていられるのでしょうか。
 たとえていえば、大学の偉〜い学者さんが出てきて、「世の中に、大学など要らないことが分かりました」と言っている、とでも言いましょうか。
 「お前がいうなよ〜!」でしょう。つまり、「大学など要らない」などと言っている人が、にもかかわらず大学教員としてのうのうと禄を食んでいる、こういう光景に対する苛立ち、なんだと思います。
(このへんの違和感については、ちょっと前の『現代思想』の「カルスタ特集」に小笠原毅さんが書いていました。つまり、カルスタ派は「カルスタの制度化・アカデミズム化はいけない」とかいうけど、そういうセリフを、今現在アカデミズムで食っている人間が、貴重な研究の担い手である「これからなんとかアカデミズムで食っていこうとしている人間」や「アカデミズムの門をなんとかこじ開けようとしている人間」に対して、どの面下げて言えるのか、というものです。ものすごく共感できました。その「カルスタ特集」は「座右の書」だったのですが、今探したら、行方不明……)

 偉い学者さんたちがあれこれ話し合って、その結果「我々のような学問的知識より、市民の感情のほうが大事であり、正しいということが分かりました」と報告することの滑稽さ。べつに「市民の感情などムダだ、無意味だ」というわけではありません。しかし自分たちの特権性と、その特権性こそが自分たちの(なけなしの)存立基盤であることを自覚せず、「市民の感情の記憶が大事です」などとご託宣を垂れる人たちに対するムカムカは、北村さんの本を読んで、幾分晴れたのでした。

付記
 ちょっと内輪の話になりますが、僕のこういうムカムカは、『中国 社会と文化』という雑誌に対して、僕のような田舎の3流学者が感じるムカムカ、なのかもしれません。あの雑誌で「中国研究は本当に必要か」みたいな特集を組まれると、本当にムカムカ(ムカつくんだけどでも読まずにもいられない、と言うムカムカ)します。なんというか、東大周辺で「感情の記憶」とか「中国研究は必要か」とか勝手に決められちゃうと、田舎3流学者は困るんですよ。十何年も師匠に付いて一生懸命修行してきたら突然師匠に「お前の修行していることは、意味のない、クソじゃ」と言われたような、そんな気分。