僕は、つまらない奴になった。

 連載の最初の頃は読んでいたのですが、その後放置していて(というのも、毎週ヤンマガを読みに通っていた食堂が潰れてしまって)、今頃になって全巻揃えて読んだ古谷実シガテラ」、いやー感動しました。よかった。号泣とまではいきませんでしたが、最後は本当にジーンとしました。

 で、今日はプチネタバレありですので、将来読もうと思っておられる方はご注意を。

 最終話に出てくる、表題のこのセリフが、すべてでしょうね。ネットではどちらかというと「否」の意見が多かった最終話ですが、やっぱりこのマンガはこのオチで良かったと思います。「あえてつまらない奴になる」ことで自分に降りかかる予測不可能な出来事をやり過ごす、そういう主人公の「あえてする」選択が、ものすごく尊いものに思えました。

 で、このマンガが傑作だ、ということを前提としてですが、それでも、こういう選択は、実社会では、とくに今現在の社会では、なかなか難しいなあ、と思わざるを得ませんでした。

 例えば我々の業界だと、「本当は○○の研究をしたいのに、就職のため・業績を増やすため、仕方なく真っ当な研究をしている」あるいは「本当は大学になんか勤めたくないのに、生活のために、仕方なく勤めている」、もっと一般的なものだと、「本当はアートやロックに生きたいのに、食っていくため、仕方なしにサラリーマンになる」とか、そういうのはよく聞きます。その場合、「サラリーマンになる」というのが最後の選択、(少なくともその人にとっては)簡単に手に届くものである、というのが前提となるわけです。

 しかし今の世の中、「最後の選択」自体、手に届きにくいものになりつつあります。主人公の荻野が「あえてつまらない奴になって」手に入れた(たぶん一流)サラリーマンという地位、それってものすごくかっこいいですが、しかしある種のやっかみ、「結局勝ち組の物語じゃねーか」を呼び込むのも確かでしょう。「本当はなりたくないのに、仕方なしに一流サラリーマンになっちゃった」なんて、サラリーマンにすらなれない人々には、どれほどイヤミに聞こえるでしょう。

 「あえて○○を選ぶ」というのは、かっこいいですが、やはりある種の余裕の成せるワザです。そういう余裕のなくなってきた社会、余裕を持てる者が少なくなってきた社会、だからこそ、この「シガテラ」、こんなにギュンときたのかもしれません。