日常/非日常と物語

 文学研究を見ていてたまに思うのですが、よく、昔の文学作品の記述をもってきて「だからこの時代はこういうモノ・考えが流行していたのだ」的に論を展開する論考を目にしますが、これってどうなんでしょう。文学作品は、「ありのまま描く」ことに異様に捕らわれた一部の時代・地域・人々を除いては、どっちかというと「日常」からはずれた、「非日常」を描くことが多いんじゃないでしょうか。たとえば、ここのところ純愛モノが流行っているからといって、のちのち「2000年代初頭は、実生活で「純愛」が再び尊いものとされた」という論考が出たとしたら、ちょっとう〜んですよね。むしろ現実世界はそういう価値観からまったく外れてしまっているからこそ、文学や映画やテレビドラマでそういう「非日常」物語を消費して、鬱憤を晴らす、という解釈のほうが、当たっているんじゃないかと思います。


 で、やや話はズレるのですが、昨日今さらながらに侯孝賢珈琲時光」を見て、これまた考えさせられました。現代台湾映画を語る上では欠かせない、ほとんど無条件で祭り上げられている侯孝賢が、しかも小津安二郎へのオマージュとして撮った映画ということで、少なくとも評論家・批評家・研究者の中でこの映画を悪くいう人はほとんどいないでしょうが、ドキドキワクワクのハリウッドモノが大好きな僕としては、なんとも退屈この上ない100分間でした。

 その理由は、少なくとも僕にとっては、何の変哲もない「日常」が延々と映し出されていることでしょう。「普通の日常を撮った」と称される映画は山ほどありますが(「プロでない普通の市民が演じている」みたいな付加価値付きで)、しかし例えば外国映画の場合、その国の「普通の日常」自体が、日本人である僕には「非日常」です。「へーこの国の人はこんな風に生活しているんだ」と、しばしの間「世界不思議発見」とか「世界ウルルン滞在記」並みの小旅行が体験できちゃう。また、日本人が撮った「普通の日常」は、そこにはやはり脚色がされていて、それなりの物語が展開されていることが多い。

 しかし、この「珈琲時光」では、外国人である侯孝賢が、彼にとっての「非日常」である「日本の「日常」の風景」をさしたる物語も無しで延々と撮り続けているため、僕のような日本人にはとっても辛い。
 これは、例えば自分の日常生活をカメラで撮られ続け、それをあとで見せられる、そんな経験に近いんじゃないでしょうか。普段僕らの生活は、当たり前ながら、100日のうち99日は何の事件も物語もなく過ぎ去っていきます。朝起きて飯食って会社(学校)行って友達とちょこっとしゃべって家帰って飯食ってテレビ見て寝る。もちろん、普段生活している時、こういう時間を主観的に生きている時には別になんとも感じないのでしょうが(「あ〜あ、退屈だなあ」というのはあるとしても)、しかし、いざ自分自身のそういった「日常」を画面で、映像として見せられたとしたら、(あくまで想像ですが)その凡庸さ、つまらなさに、ちょっと吐き気を催すくらいの嫌悪感に襲われるんじゃないか、そんな気がします。

 そういう違和感を確信犯として(日本の)観客に提示するのが目的、なんだとしたら、さすが侯孝賢、ということになるのかもしれません。しかし、少なくとも僕は、そこにいわゆる「ノスタルジック」(もちろん肯定的な)みたいなものは感じることができず、むしろ自分自身の「退屈な日常」、あるいは「物語の欠如」に気づかされて、なにやら哀しい気分になったのでした。


【追記】
……と書いたあとでネットで見たら、「この映画を悪くいう人はほとんどいない」というわけではなく、賛否両論、みたいですね。しかし勝手な(しかも間違った)感想かもしれませんが、中国映画通とか、そういう人であればあるほど、「賛」が強いんじゃないか、と思います。
また、いろんなレビューを見ると、評価する方の意見では「平凡な日常が描かれていて、いい」というのが多くてちょっとビックリ。みなさん、そんなに「日常」がいいんでしょうか。あるいは、「平凡な日常を消費する」という「非日常」経験が楽しい、とかかな。